きょうだい
殺したくないのだと。自覚したのは随分久し振りの事だった。
初めて人を殺した時からどれ位経つのか。 気が付いた時には寺に居たから人の死を見る事には慣れていたが死んだ人間を見るのと自分で他人を死に至らしめるのとは違う。 余りにも人を殺す事に慣れてしまって麻痺した感覚。
その時俺には人間も妖怪もただの泥人形にしか見えていなかった。
何が最高僧だ。
何が尊い三蔵法師だ。
符に侵され半ば正気を失ってはいても朱泱には俺が不殺生戒を捨てている事はおろかただの殺戮人形でしか無い事は一目で分かったに違いない。
揶揄するように執拗に「玄奘三蔵」と呼び続けた。
お前は「三蔵」には相応しく無いと。
昔から朱泱の言葉は何故か素直に胸に届いた。だから今も朱泱の言っている事は正しい。 自分が三蔵に相応しく無い事を一番知っているのは俺自身だ。
悟空を拾った時には既にこの手は血塗れで人を殺す事に罪悪感なんぞこれっぽっちも持っちゃいなかった。
「俺の前に立ち塞がるヤツは誰であろうと殺す」
醒めた頭で目の前の敵に宣告し機械的に銃の引き金を引く。ただの人殺しをする為の装置のような肉体。
毀れた心の侭旅に出れば異変以来街では見る事の無くなった妖怪達が何処からともなくやって来ては行く手を遮ろうとしたから片っ端から殺した。
銃を構える。
撃つ。
撃つ。
撃ち殺す。
朱泱が未だ大事に持っていた10年前自分が渡した数珠を媒介として念で現在の持ち主を喚んだ。此処へ来いと。
仲間達が朱泱を殺せないと言うのなら俺が殺さなければならない。兄のように思っていた人物。 兄弟なんて生易しい言葉では足りないそれ以上の人間。 口にした事も無かったしそれがそういった感情であると当時の自分は気付いてもいなかったが。
腹を貫かれ激痛と急激な失血に意識を保っていられたのはほんの数秒でその後の記憶は無かったが眼が覚めてみたら自分は死んでいなかった。 死ぬとか死なないとか考える暇も無く悟空の前に躰を投げ出した瞬間が過ぎてみれば生き残ってしまった以上まだ殺される訳にはいかなかった。
異変の原因を突き止め阻止すると言う大義名分なんぞどうでも良い。 まだ自分は師の形見を取り戻していないのだとその事だけが俺を繋ぎ止めていた。 聖天経文と引き替えだったら失くす事さえ惜しくない生命。
だが経文を取り戻したらその後は?
その先の事は知らない。なるようにしかならないだろうと、その程度にしか考えた事が無い。 俺の躰は未来を欲しがっていない。 だったら今朱泱に殺されてやっても同じ事なのに未だ経文を手にいれてないから殺されてやる訳にはいかない。
だから、殺す。
殺す────朱泱を?
ぎりと、痛みに指先が痺れる程の強い力で掴まれたのは銃を持つ方の腕。銃口を自らの額に引き寄せ己を苛む狂気を振り切って、 朱泱は10年前と同じ眼をした。
あの頃の朱泱はいつも何処か皮肉げに口の端を軽く上げていたが決して人を莫迦にしたイヤな表情では無く人好きのする笑い顔だった。
符に精神を焼き切られているにも関わらず、それでも最後に笑った。
自分は強がる事しか出来ないガキだったから自分から甘えたりはしなかったけれどいつもそれと分からないようにお師匠様にも朱泱にも甘やかされていた。 こんな風に。
俺があんたを殺したのでは無くあんたを札の呪いから解放したのだと、解放を望んだのは自分なのだからお前は苦しむなと。 こんな時に何も言わず笑ってみせる。
それなのに自分が朱泱に与えられた物は何一つ無い。 「大切な物だからあんたに持っていて欲しい」と子供っぽい気持ちで預けた数珠は朱泱を永く正気と狂気の間に縛り付け苦しめていただけだった。
10年前目の前で為す術もなく師匠を喪った時から少しも変わっちゃいない。 俺は今でも無力で、厭になる程に無力で朱泱に何もしてやれない。
朱泱に銃を向けるなんて狂っているのは自分の方だと思いながらその人に向けて引き金を引いた。
泣く事も出来ず眼も逸らせず呼吸も整えられない侭朱泱の死に顔を見つめ続けた。 散々降った雨に未だ冷たく濡れている地面に横たわった旅装姿。暗く湿った土の上点々と転がる嘗ては数珠だった珠玉。 力無く閉じられた瞼は血に染まり呼びかけても其処に命が再び戻る事は無いのだと分かった。
朱泱、と。
名前を呼びたいのに何故か躰が言う事をきかず口を開く事さえ出来ず息を詰めて見つめているしか出来なかった。 白々と夜が明けて来て木の葉の間から陽光が零れ落ちて来ると宵闇の間は分からなかったがその顔が既に血の気が失せて真っ白になって居る事が分かった。 夜明けと共に覚める夢だったのでは無いか、一抹の期待を以て口を開くと零れたのは今にも泣き出しそうなガキが出すような酷く弱々しい声だった。
「朱泱」
冷え始めた骸の傍らに膝を突いて呼び掛けた。
「朱泱」
名前以外の言葉は出て来なかった。
「朱、泱・・・」
殺したくなど無かったのだ。
兄のような人。