轍
「長安に三蔵法師様がお姿を見せたそうだよ」「修行の為に各地を放浪していたと言う話じゃないか。また何処かへ旅立つんじゃないのかい」
「いいや、何処かの寺に着院なさったそうだからそれはないんじゃないかね。今度の灌仏会には散華焼香なさるそうだ」
「それはそれは・・・三蔵法師様は滅多な事では人前にお姿を現さないそうじゃないか」
「是非一目見てみたいものだねえ」
食堂の片隅で遅い昼食を口に運んでいると店の婆あどもが始める何時尽きるとも無い噂話。 近隣を仕切ってる奴らの力関係が分かったりするのでいつも食堂の端っこで聞いてないフリをしてきっちり情報を頭にインプットしている。 どのグループにも付かずフラフラ生きている身としては貴重な情報源の一つだ。
だが信心なんてものがあったのかよ、と思いたくなるような業つく婆あどもが今日口々に話しているのはこの桃源郷に於いてヒトの身でありながら 『最も神に近い者』であると言う『三蔵法師』の話。
ケッ。バカくせえ。
ただの人間が神に近くなんかなれるか。
それともそいつらは人間では無いのか。
あまりに無意味なお喋りに良い加減ウンザリし常のように黙って聞いてはいられなくなった。
「三蔵法師ってのはそんなに偉いの」
龍井茶を啜りながら何となく口を挟んでみる。
「悟浄、あんたもしかして知らないのかい三蔵法師様の事」
「知ってるっつーか知らないっつーか・・・」
呆れたように問われ言葉を濁す。勿論丸きり知らない訳では無い。この桃源郷で仏教を信仰している者達にとっての神仏に次ぐ信仰の対象。 命知らずなやばげな職業のヤツらが肌身離さず数珠を身に付けている姿を見る事だって、実際珍しくはない。 桃源郷に於いて仏教と言うのは大多数の者にとって絶対的な信仰だ。 だが俺自身は熱心な仏教信者では無いので『なんか聞いた事ある』程度にしか耳に憶えが無い。 こんな近所の婆あに信仰されているのが同じ人間だと言うのも何だか俄には信じ難いし。
「桃源郷に5人かそこらしか居ないらしいよ」
「大切なお経を代々引き継いで」
「この世のものとは思えない程尊いお姿をしていらっしゃるんだ」
矢継ぎ早に浴びせられる言葉。
「尊いお姿って・・・見たコトあんのかよ」
「自分で見た事はないけどね。額に御印があるそうだよ」
そう言いながら婆あは自分のデコの真ん中を指差した。
「仏像じゃあるまいし・・・」
「だから人間の身でありながら神仏と同じく尊い御印があるって言ってるんじゃないか。 王爺さんの家で爺さんの爺さんが昔長安で買ったって言う何代か以前の三蔵法師様の絵姿を見た事があるけど、こう、赤く」
「ごちそーさん」
婆あの言葉を遮り勘定を置いて俺は店を出た。
くだらねえ。そんなもんマジックか何かで書いたって分かりゃしねえだろうが。 赤が尊い印なんだったら俺なんかもう神々しくて目も当てられない位じゃねえか。
大体そんなに気になるんだったら長安だったら日帰り・・・ は婆あの脚じゃ無理かも知れないが二日もあれば行って帰って来られる距離なんだから見に行けば良いっつうの。
婆あが店閉めて長安に出向けば玉芳・・・この食堂で働いてる綺麗どころだ、も休みが取れるし。 俺の稼ぎ場である賭場で会う夜のオネエさん達と違って初々しい玉芳。ちょっと口説き文句を告げると頬を赤く染めるその仕草。 慌てずゆっくりオツキアイなんてものをしてみても良いかねえ、なんて思う程度に最近気になる娘。 これが所謂ホントの恋とか言うヤツなんじゃねえの?
うひ。
一人肩を竦めて笑う。
明日辺りから婆あを長安に追い払えるようゆっくり根回しをしなくては。
そうだな、婆あが長安に出立したら三蔵法師様に感謝してやっても良い。
そんな事を考えていた悟浄が、 物見遊山のついでに店主と共に長安に出掛けて行った当の玉芳が当代の三蔵法師ファンになって絵姿まで買って帰って来るにあたって見た事も無い三蔵法師を嫌いになる日まで、 あと38日。