喫水線
夜中にふと目が覚めた。 疲れ切って眠りにつき朝まで眼を覚まさないだろうと思っていたので自分でも少し思いがけなかった。 眠りが足りてすっきり目覚めた訳では無い証拠に身体もだるいし思考もはっきりしない。 シーツの上に落ちる青い色をぼんやり眺めた後窓から降り注ぐ月の光に気が付く。
眠りにつく前の事を少しずつ覚醒して来た脳で思い出す。 久し振りのきちんとした宿だと言うのに悟浄と同室になってしまった事を忌々しく思ったのだが、 少し意外な事にエロ河童は手を出して来なかった。 ここの処夜襲が多かった所為もあり正直今日はゆっくり眠りたかった。 そう思っていたのは河童にはバレていたに違いない。奴は時々えらく目敏い。
室内を照らす光と同じ薄青い色に染まった自分の上に投げ出された腕が重くて少し息苦しい。 恐らくこの腕の所為で眼が覚めたのだろう。 原因を突き止めた処で自分を抱き込んだ侭眠りに落ちたらしい悟浄の腕を解いて布団の上に起き上がると、 先程まで躯を包んでいた温もりが失せ途端に寒さを感じ身震いする。





悟浄が自分を物欲しげな眼で見ているのは割と早くから気が付いていた。
あの赤い色は決して嫌いでは無かった。いつも自分を追ってくる瞳、と。気が付くと眼で追っている赤い色。 自分も悟浄と同じ眼をしているのではないかと思ったらいたたまれなくなったのでお前の視線に気が付いているのだと早々に知らせた。 真正面から向かい合って告げると悟浄はおずおずと唇を寄せた。
その日から、煙草を吸いに仲間の元を離れ二人きりになった時や宿で同じ部屋になった時に口付けを交わすようになった。 口付けの先に待っている行為は一応知識として知ってはいたが悟浄はそれを求めては来なかったので、 女好きのエロ河童は男相手にそれ以上先へは進むつもりが無いのだろうと、そう思い込んでいた。


ある晩口付けの後悟浄が首筋に舌を這わせ法衣の袷に手を差し込んで来た。 反射的にその手を叩き落とすと昼日中は振り払えば大人しく引き下がる悟浄の腕がその時は何故かしつこく食い下がって来た。 法衣の裾を割り開き性急に俺のジーンズを剥ぎ取った悟浄が脚を抑え込もうとすると嫌悪で総毛立った。 行為が怖かった訳では無い。他人に触れられる事が耐えられなかった。 悟浄の指が皮膚の上を掠めるだけで俺の躯はひきつけを起こしたように大袈裟に跳ね上がった。
表皮。温い体温。皮膚の下に埋もれた骨の感触。動きに合わせ形を変え盛り上がる張りのある筋肉。
あまりの気色悪さに胃が痛んだ。眼を固く閉じても嫌悪感は消えずみっともなくも意味のある言葉を吐く事も出来ず、 上擦った声を上げて悟浄が触れる度に身震いした。
一度意識してしまうとその体温を、感触を何でもない事であるかのようにやり過ごす事が出来ず、 肌が粟立ったが震えていると知られる位なら接触されるのを拒むあまり触れて来る手を払い除けているのだと思われる方が余程マシだった。 自分以外の体温の不快さに、明確な意思を形作るより前に無意識のうちに悟浄を振り払おうとするその手は然し、 他人に触れる事を嫌悪し感覚の敏感な掌を他人の表皮に向ける事を拒み拳の形に握り固められた。
俺が他人に触れられる事を嫌悪している事は仲間と言うか下僕共は皆知っている。 知って尚悟浄だけは気安く触れて来たのは只の潔癖症だと思い揶揄うつもりだったからだろうが、 事此処に至って漸く、本当に俺が他人との接触を生理的に受け入れられないのだと理解したらしい。
呆然と、コトに至るどころかただ服を剥いで躯の表面を撫で回しただけで。悟浄はゆっくり躯を離した。
その後悔したような表情を忘れる事が出来ない。
何時からだか分からない。昔から他人の体温が苦手なのだと。
そう告げてやろうと思ったのに歯の根が合わなくてまともな言葉を発する事も出来なかった。
「・・・・・・悪い」
そう言って悟浄が寝台から身を起こし立ち上がったので法衣を掻き合わせようとすると指先が強張ってしまっている事が分かった。
謝るべきは自分なのだと、悟浄にそんな表情をさせてしまった自分なのだと思いはしたが、 悟浄の顔を引き寄せられるようにまじまじと眺めるだけで結局自分からは一言も発さなかった。



二度目に触れられたのはそれから数ヶ月後だった。 前のようにいきなりではなく心の準備と言う物が出来ていた所為かどうなんだか分からないが、 多少震えはしたが自分でも抑えられない程反射的に闇雲に腕を振り払いたくなる事は無かった。
優しく髪に差し入れられる長い指。素肌の上に降って来る熱い吐息。歯をきつく噛み締めて震えを殺した。 時折躯が跳ね上がるのが剥き出しの肌を這い回る悟浄のがさついた掌に対する嫌悪の為か快楽の為か分からなくなる頃、 抱え上げられた両脚の奥深く、躯の中に熱いものを流し込まれた。
夜中に眼が覚め同じベッドに二人で寝ている事に気が付いた時、 身を離して悟浄の体温を感じない処に寝転がろうとしたが、 狭いベッドの中にそんな場所は無かったので使用していなかった隣のベッドに潜り込んだ。
シーツに染み込んだ他人の体温。生暖かいシーツに触れている部分からじわじわと皮膚を浸食される感覚。 ナメクジに這い擦り回られたらこんな感触がするのだろうかと、清潔な冷たいシーツに皮膚をこすり付けながら思った。 表皮から異物が浸透して来る不快感。浸透速度は決して速くは無いが触れられた部分は疾うに冷えているのにその感触までは消せない。
体温というものは酷い暴力だ。
身体の中に悟浄を受け入れ吐き出された悟浄自身の熱を思い出したら吐き気が込み上げて来たのでシーツを掴んで小さく縮こまった。 朝になったら散々河童に文句を言われたが悟空以外と同じ布団で寝た事の無い自分としてはそれが最大限の歩み寄りだった。



三度目に触れられた時はもう身体が震える事は無かった。
他人の体温を不快と思う気持ちと「これ位なら良いか」 とぼんやり考える気持ちの狭間で深く寝入る事の無い侭朝まで悟浄と同じ布団で眠った。



・・・こんな風に他人と抱き合って眠る事が出来るようになるとは思わなかった。
こんな風に喪われる体温を寒いと感じる事があるとは思わなかった。


認めたくは無いが。


この腕の温もりはそれ程厭なものでは無くなってきている。
だがそれ以上は絶対口になどしてやらない。
言ってしまいそうになる言葉は呼吸と共に呑み込んでやる。
溢れ出そうな言葉は無意味な台詞で誤魔化してやる。


シーツに沈んだ侭の悟浄の寝顔を眺めて口を開く。


「・・・バカ面」

常日頃満員電車に乗る時ぎゅーぎゅーに押し合っているのが人間だと意識しないようにしているのですがたまにぼーっとして意識を飛ばすのを忘れている時に他人が突如触れたりすると驚きを通り越して気色悪くて必死に逃げます。

100題