マニキュア
初めてのオンナの事、覚えてる?
なんて、三蔵に言っても無駄なのは分かってるけどそんな事を口に出したい気分の時もある。 別に自慢とかそんなんじゃなくて何故だか急に思い出したあの女(ヒト)。
もう名前も覚えてなくて(と、言ったら三蔵は何て言うだろうか?「つめてーヤツ」位の事は言ってくれるだろうか) 覚えているのは華奢な指先に綺麗に塗られた赤いマニキュア。
母親を殺し(実際に殺したのは兄貴だが)、母親を埋葬し、俺を殴る人は居なくなったあの家には居られなくなったから出て行った。
ありあわせの金を掻き集めて懐に仕舞い込み後も振り返らずに逃げ去った。
先に家を出た兄貴が何処へ行ったのかは知らなかった。
後を追うつもりも無かった。
ガキの目には大層な額に思えた金がどれ程のものであったか覚えちゃいない。
街に出てみればいいようにカモられあっという間に握りしめているのは小銭だけになった。
所詮世間知らずのガキ。
例えば母親の虐待(って言うんだよね今時は)に耐えかねて「何時かこの家を出て行ってやる」 位の事を考える真っ当なガキだったら、準備万端家出の支度位きちんとしておいたのかもネ?
最初に転がり込んだと言うかボロボロになった俺を拾ってくれたのはパブの女主人。しわくちゃの婆が一人で店を取り仕切っていた。 老齢にも関わらずぴんと伸びた背中に後れ毛の一本とて無いきちんと結い上げた髪。 実はかなり良いトコロの出だとか、 良いトコロのお坊っちゃまと身分違いの恋をして駆落したら相手が流行病でコロっと逝っちまった後も操を立てて一人でいるんだとか、 悲恋の末の一粒種が余所の街で商売で大成功して店の為に仕送りして来てるんだとかどれが本当だか分からないような噂が色々あった。 そこらのゴロツキだって彼女には一目置いてババアだの言わず「マム」なんて呼んでいた。 ママって言う程おミズっぽくはなくマダムと言う程艶っぽくもないからマムなんだとか。 三蔵だってマムを見たら「貴様は許容範囲が広いな」なんて悪態は吐かないって賭けても良い。
そうそう、そこのパブで客相手にポーカーだのしてるうちに自分がその道の才能あるんじゃないかって思ったんだ。 三蔵様と違って俺って手先器用だし? カードをシャッフルする合間の客寄せのトークもブラフも、 口を開けば呼吸をするのと同じ位当たり前に舌先から溢れて来てアレアレっと思う間に小金が溜まっていた。 ホントの処客の中に八戒みたいなヤツがいたらちょっとした自信なんてぺしゃんこに潰されて今頃別の事で食い繋いでたと思うケド。
ギャンブルでそれなりの稼ぎを得られるようになったんでマムの処を出た。 バアサンの庇護があったからギャンブルの際のイザコザに巻き込まれる事も滅多に無かったと言うのに、 ソレを我慢出来ないと思う位にガキだったくせしていっぱしの口聞いて出てくなんて言って、 自由になった途端ヤバイ事に手を出すって分かってたろうにバアサンは引き留めなかった。 それからは一通りヤバイ事に手を出したりしながら女の処を渡り歩いた。 ま、ここらの事は三蔵には聞かせられないな。
取っ替え引っ替え仮初めにでも俺の事を「スキだ」と言ってくれた女の子達と生活を共にした。 何処まで本気か分からないおままごとのような暮らし。
どの女とも「痴情の縺れ」なんてイザコザも一切なく後腐れ無く別れたのはそもそもお互い本気じゃ無かったからなのか。 ちょっと甘えてみせると「しょうがないわね」なんて言いながらいとも容易くドアを開けてくれた女の子達。 お互い寂しかっただけなのだと今なら言える。得られなかった愛情を求めるように縋るように、 だけどその実心の中では誰の事も追っていなくて。 もうどの女の顔も覚えちゃいない。
あの女(ヒト)以外俺は誰もスキじゃなかったのかも知れない。
あの女だけは俺を「スキ」だとは言わなかった。年上の、赤いルージュに赤い爪のあの女。
煙草が欲しくなって枕元に腕を伸ばそうと動いた拍子にベッドのスプリングが音を立てマットレスが微かに傾いだので、 眠りの浅い三蔵が小さく身じろぎした。 眠っている筈の三蔵の眉根がゆっくり寄せられて意識が浮上しかけている事が分かったので煙草は諦める事にする。 疲れ切っていたらしく髪をロクに乾かしもしないでベッドに潜り込んだので鼻先を掠める三蔵の髪は未だ冷たく湿っている。
柔らかいシーツにくるまれて眠るその人を起こしてしまわないようそっと指先を持ち上げる。
「まだ寝てな」
小さく呟きながら口付けるのは女のように長く伸ばしてもいない、綺麗な色に塗ってもいない、短く切り揃えられた三蔵の爪。