喰むべき
新人研修をこなしつつ給与計算をしつつ時間外労働(所謂残業の事だ) の集計をしつつ住民税の入力をしつつ毎度毎度同じ事を言わせる支店に督促の電話を入れつつ社内のトラブルに対応する、 と言うのは毎年の事ながら一人でこなすのは無理があると思うのだ。 入社式直前に、新人研修担当の女性社員が退社するともなれば尚の事。
どういう訳か、新人研修担当となった社員は担当になった当時は独身でも2、3年もすれば結婚して寿だったり 旦那の転勤だったりで退職してしまうと言う妙なジンクスがある。 ジンクスと言うよりこれは最早呪いではないかと疑いたくもなる。 過去には、新人研修で顔を合わせた新入社員と交際を始め、後に結婚して職を辞した社員もいる。 めでてえ事だし本人が決めた事なら仕方ない、そう思うが何もこの時期に辞めなくても、そうも思ってしまうのは仕方のない事だろう。
「・・・さんの式って今月だね」
「へえ、ジューンブライドなんだ」
式なんか何時だって良いだろうと思う心の狭い人間は俺一人のようで、 職場では披露宴や二次会に招待された人間達が楽しげな声を上げる。



人が足りないとは言っても基本的に会社と言う処は非営業部門の人間はタダ飯喰らいも同然だと思っている。 その、タダ飯喰らいの筈の人間が給与に関する雑事、市毎に異なる住民税率の管理などを一手に引き受けている事に気付きもしないで。 だから一人辞めたと言っても人員の補充はいつも後回しになる。 然し人手が足りないから給与も賞与も支給が遅れたと、そう言う訳にもいかない。 給与計算などは機械が自動的に計算してくれるものではあるが、それはあくまで基本の事であり、 ちょっとした条件設定に関してのミスがあったりするととんでもない結果が表示される事もある。 例えばボーナス0円とか。それをチェックするのは人間の仕事で、 だからと言って「激疲れたから今月の給与は予定日より支給が遅れる」と、そう言う訳にもいかない。
だったらどうするのかと言えば今居る人間で何とかするしかない。



毎日帰宅が遅くなり、遅い時間ともなればメシを作る事は元より喰う事さえ面倒になる。 いつもだったら風呂に入っているような時間に帰宅しているのだから慌ただしく風呂の支度をして風呂に入ればメシの事を考える余裕もなく空の胃袋にビールだけを流し込んで眠りに就いた。 疲労の溜まった体では朝もギリギリまで寝倒してしまうし勿論前日に朝飯の準備もしていない。 買い物に行く事すらしない、侘びしい程に冷蔵庫の中もスカスカな、そんな日が続いていた。

帰宅する早々鳴る呼び鈴の音に元より良くもなかった機嫌が更に低下する。
面倒くせえな、そう思いながらドアスコープを覗くと隣の住人が立っていた。 現金なもので、呼び鈴を鳴らしていたのが見ず知らずの人間、例えば宅配とかだ、 ではなく見知った人間なのだと分かった途端眉間の皺が少なくなるのが分かる。
「今晩は。遅くに済みません」
無言でドアを開けると礼儀正しく八戒が夜分の挨拶を述べる。
「ドアが開く音が聞こえたんで帰って来たんだと思って。最近ずっと遅いですね」
「そんなに煩かったか」
このマンションは割に防音の良い造りなので、室内に入ってしまえば隣家の音はそれ程気にならない筈だ。 自分では気付いていなかったが、何時に帰宅してるか把握出来る位にドアの開閉が喧しいのだろうか。
「え?いやですねえ、お隣なんだからドアの音位聞こえるでしょう?」
別段俺のドアの開閉が非常識に喧しい訳ではないのだと、言葉に滲ませて目の前の男はくすりと笑いながら告げる。
「そうか?」
俺は八戒が何時に出掛けて何時に帰ったかを気に留める程にはドアの音なんざに耳を澄ませてはいないが。
「立ち話をしに来た訳ではなくてですね、これ、良かったら食べて下さい」
何が面白いのか相変わらずの笑みを浮かべた侭ですい、とそれまで両手で取っ手を握っていた小振りの鍋を八戒は差し出して来る。
「・・・なんだ?」
「冷たいおでんです」
「・・・・・・は?」
「最近、夏になるとスーパーで冷たいおでんって売ってるじゃないですか。面白そうだから作ってみたんです」
「つまりはおでんを冷やしたもんなんだろうが。殊更「冷たいおでん」なんて言わなくても」
「冷やしてあるから冷たいおでんなんですよ」
「・・・なんだそれは」
冷やして食いたければ自分で冷やすだろう。何故自ら「冷たい」などと宣言するのだ。
「温めなくて良いって事じゃないですか?」
「・・・・・・」
何だか何もかもが面倒になって来た。おでんのネーミングを巡る不毛な会話を続ける事も。 そもそもこの猪八戒とはおでんの具は何を入れるべきか──何が好きか、ではなく──で激論を交わした事もある、 なのにおでんを持って来ると言う事は未だあの時の言い合いを根に持って居るのだろうか、 それとも何か目論見があるのだろうか、例えば具は何か、と言った事さえどうでも良く思えて来る。
「それでですね。沢山作ったんで食べてみませんか?」
正確には、沢山作って沢山冷やした、だろう。
「・・・そうだな」
短く嘆息してそれまで八戒が両手で抱えていた小鍋を受け取る。
「温めなくて良いですからね、その侭食べて下さい」
「分かった」
温かかろうが冷たかろうがもうどうでも良いとばかりにぞんざいに返事する。
「じゃあ、お休みなさい」
「ああ」
愛想のない俺の言葉に気を悪くするでもなく背を向ける八戒の背後には、 意識して瞳を凝らしてみると今でも数年前に死んだ八戒の恋人、否、入籍は済ませたのだと言っていた、 の姿が薄っすらと見える。二人で食べるべきだった食事だとでも言うかのように「作り過ぎちゃって」 などと言って俺の元に食事を運んで来る八戒の中にも、今もあの女が棲んでいる。




鍋からおでんを器に移し、ついでに汁を少しだけ口元に運んでみる。 醤油ベースではなく、塩とコンソメがベースになっているらしくやや塩辛い。
冷えたそれを喰ったら悟浄に電話でもしてみようかと、そう思う。
何故だかあいつの声が聞きたかった。
6月にアップしたかったのに。おでん好きじゃないのにまたおでんネタ。

novel−パラレル