the hand that feeds.
泣きながらあんたなんかいなければ良かったのにと美しい栗色の髪を揺らしながら斧を振り下ろした人の事を時折思い出す。
俺の腕が折れ曲がり生暖かい臓腑を床にばら撒いて拭いてもぬぐいきれない程の床板に染み込む程の血を流したならあの人は満足だったのだろうか、と。
白い骨を剥き出しにし或いは粉砕され元の姿など分からなくなるまでにぐちゃぐちゃになる事をあの人は望んでいたのだろうか。
血も繋がっていない他人に死んでしまえと、
そうまでして死を望まれているのだったら死んでしまった方が良かったのではないかと時折思う。ここは俺のいるべき世界ではなかった。 狭い部屋の中に赤だの黒だの色っぽい下着が惜しげもなく干されていた女の部屋を追い出されてしまえば帰る場所もなくこんな時に咄嗟に転がり込む場所も俺は持ってはいなかった。 友人とか、家族とか。朝までやってる酒場か賭場に潜り込んでお目こぼしを貰って片隅で膝を抱えて丸くなって、 店がひける時間迄に誰にも引っ掛けられなかったら重たい脚で店を出て往来で横になって。
沙悟浄なんて名前はあるものの誰にも名前も呼んで貰えなくてお前とかあんたとかそこのチビとかそんな風に呼び付けられて。
俺が目の前から消えさえすればあの人は満足だったのだろうか。 それとも俺が目の前で醜い死体になって血の匂いをまき散らす所を見たかったのだろうか。 誰にも必要とされてはいないけれど死ねば良いと、望まれたのはそれだった。 だったら俺なんか生きていない方が良いのではないかとこんな風に「これからどうしようか」 とぼんやり考えている時に神託のように降って来る言葉。 胃が熱くなって息が出来なくなって瀕死の犬のように開いた口からだらりと舌を垂らして床に転がって神託が去るのを待つ時間。 誰かのおこぼれに預かってまで生き延びていたいと思う程に生にしがみつけなくなる夜が訪れそうな予感に惨めな姿を晒す前に店を出ようと思う程度にはチャチなプライドも抱えていて。
今まさにテーブルから離れようとしたタイミングを計ったかのように目の前に皿が差し出された。
「俺はこんなもん頼んでねえけど」
店のヤツが間違ったのを幸いと貪り付く前に牽制する。喜んで匙を突っ込んで後で法外な金額を請求されたりしたら堪らない。
「アタシの奢りだよ。痩せっぽっちのチビちゃん」
カウンタの奥から言葉を掛けて来たのは店主だった。 赤字に白の水玉が往年の脂肪で横に伸びきっているワンピース。 頚の周りにも幾重にも重なった脂肪が古タイヤのように重なっているが今夜はこの婆ぁを満足させれば取り敢えずメシと一晩の寝床は確保出来る訳か、 と先程迄は死んでしまえば良いと思っていたクセに条件反射のように愛想笑いを浮かべる。
「おっと、おかしな誤解すんじゃないよ。アンタの貧相なオモチャなんかに用はないよ」
失礼な事を言いながら婆ぁは舞台女優のように大袈裟な仕草で両腕を顔の前に上げてひらひらと振って見せる、 その矢張りむっちりと太い左手の薬指に一目見ただけで既に外れなくなって久しい事が分かる銀色の指輪。 どうしてもソイツを外したければ婆ぁの指を切るかさもなければ指輪の方を焼き切るしかないだろう。
「冷めないうちにお食べ」
重たく脂肪の乗っかっている瞼を細め笑う婆ぁから視線を逸らさない侭言われる通りに皿に匙を突っ込む。美味い。
「どうだい、美味いだろう?アタシが焼いたんだよ」
トマトの酸味の良くきいたラザニアは舌が焼ける程に熱かったが氷水の入ったコップを傍らに置かれる頃には婆ぁに取り敢えず一目置いていた。
「今日はここでおやすみ」
そう言って婆ぁが扉を開いて俺を室内に導き入れた時も俺は先程の俺の身体に用がある訳じゃないと言った婆ぁの言葉を信じちゃいなかった。 店の人間とか客とかそういったヤツらの視線を気にしてとか、俺を安心させる為の出任せだろうと思っていた。 吐き出され虚空に紛れて消えて行く煙草の煙のような他愛の無い嘘。
「服は適当にあるものをお使い」
言って、婆ぁがクロゼットの扉を開くと中には時代遅れな服がずらりと並んでいた。 勝手に着ろと言われても俺が着るには随分大きいように見える。
「アタシの死んだ亭主の服だからね、アンタみたいな若い子には野暮ったく見えるかも知れないけど」
クロゼットを開けた侭婆ぁが振り返る。婆ぁの灰色の瞳が明かりを受けて輝く。 きらん、と音が聞こえそうだったがその視線を受け止めさあ来い、と思った。 近くで見てみりゃあ皺だけじゃなくシミだのソバカスだのが星座のように頬に散らばっているが貧相なと称されたオモチャをこの脂肪の塊の中に突っ込んで満足させりゃあ一晩の寝床、 上手くすれば朝飯だって確保出来るのだ。
「あの人もアンタみたいな綺麗な赤い瞳と赤い髪をしていたよ」
婆ぁのぶよぶよの手が俺の髪に触る。睨み付けたりしないよう気を付けながら俺は平静を装う。 愛おしげにゆっくりと丸みを帯びた手を動かしながら婆ぁは言葉を続ける。
「アンタもあの人と同じで異国の血が混じってるんだね」
アンタそりゃ騙されてたんだよ、咄嗟に吹き出しそうになるのを必死に堪えると婆ぁはくるりと廻って俺に背中を見せてドアに向かう。
「おやすみ」
言葉と共に閉ざされた扉に笑いの発作も収まった。
「・・・ナニ考えてんだ婆ぁ」
目の前で閉まった扉を睨み付け、小さく呟いた。
蝶のように軽やかに、と言う風にはいかず婆ぁが廊下を歩く重厚感のある足音が短く聞こえ、 俺に宛われた部屋からそう遠くない場所から蝶番が軋む音、それに続いてバタンと扉の閉まる音。 つまり、婆ぁの部屋は隣と言う訳だ。
そう言う事なのだろうか。
婆ぁが俺に乗っかるんじゃなくて、あくまで俺の意思で婆ぁに乗っかった事にしろと、そう言う謎かけなのだろうか。
だが、と軋むベッドに腰を降ろして俺は考える。 実際の処「おやすみ」と言われたんだし、婆ぁの部屋に行かなくとも別にどって事ないんじゃねえか。 それで婆ぁが怒って明日の朝にでも叩き出されたってタダで一宿一飯にありつけたんだから上等だ。 タダ食いを「儲けた」とは思うものの「申し訳ない」と思うしおらしさなど俺は持ち合わせてはいなかった。
そうと決まれば寝るに限る。
薄い壁の向こうから、婆ぁのものと思しき酒で潰れ半ば嗄れた声が聞こえて来る。 聞いた事もないのに何処か懐かしいような気のする歌声が。 泣いているのかも知れない、そう思いながら悲しい旋律の歌を子守歌にベッドの上で丸くなった。