the middle of nowhere
執務室の扉を開けた悟空が目にしたのは主のいない椅子だった。
勢い良く扉を開けた姿勢の侭悟空は数秒立ち尽くし、次いで三蔵の私室を訪れたがそこにも探し求める人物の姿は無かった。
用事があって出掛ける時は三蔵は悟空に一言声を掛けて行く。「すぐ戻る」或いは「長く掛かる」と。
そして悟空を伴って出掛けると余計に面倒の増えそうな訪問先、例えば寺に行く時以外はついでのようにこう付け足す。
「来い」と。
そうやって自分を呼ぶ三蔵の声が悟空は好きだった。
この人だ、と思った。岩牢から連れ出してやると言われた時に。
行くアテが無かったから三蔵の後を附いて行った、
それは事実だが行き先が決まっていたとしても自分は三蔵の所へ行ったに違いないと言う事が悟空には分かっていた。
寺の他の場所に三蔵がいない事は既に分かっていた。
自分に何も告げずに出掛けたと言う事はちょっとした、すぐ戻るつもりの外出なのだと不安を呑み込みながら悟空は三蔵の寝台に横になった。
扉の開く音に悟空が目を開けてみれば部屋の主である三蔵が室内に入って来る処だった。
「さんぞー、お帰りっ!」
「ああ」
勢い良くシーツを跳ね上げながら悟空が言うのに勝手に寝台を使われていた事に文句を言うでもなく短く答え三蔵が椅子に腰を降ろす。
動作に伴い法衣がふわと揺れ微かに清潔な香りが鼻先を掠めるのに悟空はあれ、と思った。
湿った洗濯物のような洗ったばかりの石鹸に濡れたような匂い。
床にぺたりと脚を降ろし鼻孔を広げ僅かに空気を強く吸い込み悟空は思った事を口にする。
「三蔵、良い匂いがする。石鹸の匂い」
その言葉に三蔵はぴくりとも指先を揺らす事無く悟空を一瞥した。
逢い引き宿の安物の、感触も香りも更に言うなら泡立ちすら対して良くは無かった石鹸の匂いが、
咎め立てられる程濃く残っている筈が無かった。
だからと言って嗅覚の鋭敏な悟空が気付かない程に匂いが薄れていると思っていた訳でも無かった。
「気のせいだろ」
表面上はいつもと変わらず素っ気ない三蔵の言葉に悟空は続ける。
「ううん。寺で使ってんのと違う石鹸の匂いがする。三蔵、どっかで風呂入って来たの?」
「てめえ腹が減り過ぎてハナまでおかしくなったんじゃねえのか」
悟空の言葉を否定する事も無い侭三蔵はさりげなく話の矛先を変えようとする。
未だいつものように「ハラ減った」と悟空が一言も発していないにも関わらず。
「ちがーよっ!それに悟浄の煙草の臭いもする」
三蔵は机の上に投げ出した掌が撥ねるのを抑えるのには成功したが肩が揺れるのは抑え切れなかった、
悟空もその動作を見逃さなかった。
「悟浄と一緒だったのか?」
「偶々行き会っただけだ」
動揺を悟られまいと逆にどうと言う事も無いのだと思っている証左として悟空に向き直った三蔵が見たのは、
年齢以上に幼く見えるいつもの子供っぽい表情の消え痛々しい程頬を強張らせた姿だった。
ガキだと思って侮っているつもりはなかったが、悟空の敏感さに三蔵はひやりと肝の冷える思いをする。
悟空が悟浄と同じような意味合いで自分に執着している訳ではない事は三蔵にも分かっている。
分かってはいるが、悟空のこの「悟浄」と名を発する時の敵愾心剥き出しな気配はどうだろう。
「悟空・・・」
短く名を呼んでから言い淀む。
悟空と対峙した侭三蔵は続く言葉を紡ぎ出せなかった。