長袖の安息




大して面白い事が書いてあった訳でもない新聞紙面に気を取られているうちに煙草の先の燃えさしがぽろりと零れ落ち指先を掠めた。 幸いもう熱くはなかったので火傷をする事はなかったが一応指先を確かめる。
衣服に覆われた下には今更火傷の一つや二つ増えた処でどうと言う事もない傷だらけの腕がある。 ガキの頃の火傷の痕は幾分薄くなったがそれでも消えずに残った。もう消える事はないのだろう。



泣けば余計に殴られるので泣かなくなった。泣きさえしなければそれ以上殴られる事はなかったので。
腕を晒しておかなければ煙草の火を押し付けられる事はなかったので夏でも袖の短い服を着る事はなくなった。 わざわざ袖を捲り上げてまで火を押し付けられる事はなかったので。
服に隠れて見えない処を狙って怪我をさせられる事はなかった。つまり計画的な虐待ではなかったと言う事だ。
腕を晒してさえいなければ煙草の火を押し付けられる事がなかった、 目に付く処に悪意をぶつける対象が無ければ意識的に虐待を行うつもりはなかったと言う事だ。
ただ殴られ手当たり次第に手の届く範囲にある物を投げ付けられるだけで。
視力が落ちたのは何だったかは覚えていないが何か固い物を頭にぶつけられて以来だった気がするが。
その時自分が怯えていたかどうかも覚えていない。何も感じていなかった気がする。 或いは怯えないで済むよう感情を押し殺していたのかも知れない。 家を出るだけの知恵も経済力も持っていないガキの頃の事だ、 それでも毎日帰らなくてはいけない家に怯えを感じる位だったら感情など死んでしまった方が余程ラクだった。 泣きもしなければ笑いもしない子供と振り上げた自分の掌に我に返って取り乱し泣き喚く女と。
母親、と世間で呼び称されるその女が毎日犬の啼き声のような甲高い声で何を嘆いていたのかは覚えていない。 ひとしきり喚きながら勝手に激昂しては後はぺたりと床に座り込み放心していたその顔を自分はもう覚えてはいない。 自分の顔の前をひらひらと幾度も舞う白い掌が蝶のようだと、莫迦げた事を考えながらその時をやり過ごす事に慣れた。 その手が嘗ては、恐らく幾度かは自分の頭を撫でる事もあったのだろう。 誰のものに似ているのか未だ写真の一枚さえ見た事の無い誰かともしかすると同じ色をしているのかも知れない自分の髪にあの指が絡められた事が。
唯一覚えているのは神経質そうに煙草を摘み上げる細い指先。 綺麗にマニキュアを塗った指がまだ子供だった頃の俺の腕を掴み、残りの手は火の点いた侭の煙草を。
甲高い声と煙草の灰とで閉ざされた掃除さえされなくなって久しい埃だらけの部屋。 来る日も来る日も二人きりで世界は始まり二人きりで世界は終わるような錯覚を覚えたあの小さな部屋。 目も眩む程の閉塞された世界は唐突に終わりを告げた。
ある日出掛けたきり帰らなくなったその人が事故に遭って死んだのだと遠縁だと言う坊主(そんな親戚がいたなんて初耳だったが) に告げられた時嬉しかったのか哀しかったのかも覚えていない。 何も感じなかったと言うのが正解だろう。
身内の葬式をあげるのが身内の坊主だなんて出来過ぎだと笑おうとした筈なのに表情はぴくりとも動かなかった。 葬儀の席で見た事も無い親戚達に物珍しそうにじろじろ無遠慮に眺められていっそ笑ってやろうかと思ったが矢張りその時も笑う事が出来なかった。 泣いたら負けだとずっと思っていたが、何時からか感情どころか表情さえ動く事がなくなっていた。 そんなもの勝負にもなっていない。負けたのは自分の方かも知れない。



時計を確認しコートを羽織りながら立ち上がる。 誰と約束があった訳ではなかったが。マフラーを頚の回りに厳重に巻き付けても肌寒さは消えない。 肩を竦めながらそれでも忘れずにポケットに煙草を突っ込む。
外に出てみれば煙草を銜えてもいないのに吐く息が白かった。






再録。この暑いのに冬の話。
分かり難いですが悟浄さん話ではありません。
伏線その1、新聞
伏線その2、夏でも長袖(「夏馬」参照)
伏線その3、寒いの苦手(100題「バレンタイン」参照)



novel−競馬パラレル