ジャックナイフ 2
寺に居る時は陽も昇っていない時間に起き出して朝課を行うのだが今朝は誰にも起こされる事無くゆっくり眠ってから── と言っても部屋の明るい事に驚いて夜明け過ぎに飛び起きてしまったのだが──長安に戻った。
寺に戻ってみれば案の定悟空がいつものように寺院内を滅茶苦茶にしていたのでハリセンで思い切り殴り付け後片付けを命じてから書簡に眼を通し、 昨日のいけ好かない闇売買の店に官吏を手配するよう役所に文をしたため、 猪悟能の居る懲罰房に足を運んだのは夕刻近くなってからだった。
鍵を開けるよう命ずると未だ怯えたような顔つきをする張り番に鍵を開けさせる。 大罪人の居る房に好んで近付きたがる坊主はいないものの俺が中に入っている間だけは仕方無く扉の前に立っているらしい。 不要だと何度告げても「三蔵法師様の御身に何かありましたら大変ですから」と言い張ってはいるが万が一「何事か」 が起きたら真っ先に逃げ出すのではないかと思う程緊張している。
その日も扉を開けるよう告げると震える手で鍵をがちゃがちゃ鳴らしながら開錠した。
中に足を踏み入れると寝台に腰を下ろした侭の猪悟能が顔を上げ、 微笑っているのだか泣いているのだか分からないような表情をした。
こいつには未だ昇華されていない疵があるのだから泣き顔に見えるのはともかく笑い顔に見えるのは何故だろうといつも不思議に思う。
笑う可き事などありはしないのでは無いか。余程可笑しい事でもあったのなら別だが一日牢に閉じ込められている身で笑うべき事などある筈も無い。 かと言ってその表情は自嘲とも違ったものなのだが。
其処まで考えて思い出した。口元を歪め薄っぺらく嗤う男の事を。
「・・・アイツに会った」
外に居る坊主に話を聞かれても構わないのだが数歩中に歩み入ってから言葉を発する。 この房(へや)はそれなりに広いので戸口で話すと大声を出さなくてはいけないのが面倒な所為でもある。 着院した折一度見ただけの房にこうして足繁く通う事になるとは予想だにしなかった事だが思うに此処は牢と言うより高僧が掟や法に抵触した際籠もる為の蟄居室だったのではないだろうか。
「あいつ?」
「お前が世話になってた赤い髪の男だ」
「悟浄さんですか?」
不思議そうに問い返すのに答えてやれば多少身を乗り出すようにして猪悟能が嘗て無い程勢い込んで答えた。
「ああ」
・・・そう言えばそんな名前だったか。
名前も忘れてしまっていたそんな男の名を猪悟能が叫び声に近い音量で呼んだ事に内心驚きはしたが考えてみればこいつは約一月もの間あの男の家に居たのだ。 多少の事では動く事の無い自分の顔面の筋肉が此の時も相変わらず微動だにしていない事を自覚しながら言葉を続ける。
「お前がどうしてるか気にしていた」
「・・・そうですか」
そう呟くと猪悟能は微かに俯いた。









その日姿を現した三蔵さんは一人きりではなく、白衣姿の男性──先日自分の治療に当たった医師が一緒だった。
「あの・・・?」
三蔵さんの方を窺ってみれば黙って頷いてみせたので検査か何かなのだろうと思い医師に促される侭寝台に腰を下ろした。 眼帯を外すよう命じ、顔を近付けて眼窩の奥をペンライトで照らし一通り検査を終えるとその医師は三蔵さんに告げた。
「経過は良好です」
「そうか」
「はい。後は健康状態に問題がなければ大丈夫でしょう」
その言葉に殊更に嬉しそうな顔をするような人では無いし自分もその言葉を聞いて素直に喜ぶ気にもならなかったので黙って二人の遣り取りを聞いていた。
次は上着を脱いで一通り検診を受け、最後に採血までされた。
検査が終わりシャツをもぞもぞ着込んでいると医師も手早く片付けを終え、彼と一緒に三蔵さんは部屋を出て行ってしまった。

そうか、今日は三蔵さんと話が出来ないのか。

その侭誰も戻って来る気配の無い事に少しがっかりする。
三蔵さんはその額に神仏と同じ赤い証を頂く、この世に於いては『最も神に近い者』である尊い三蔵法師様だ。 そんな人が毎日僕なんかの為に時間を割いてくれるだけでも充分有り難い筈なのに、 ましてや検診を受ける間側に付き添っていてくれると言う保護者のような役割も負ってくれたと言うのに、 会話が出来なかった事を惜しむ自分がいる事に驚いた。
三蔵さんは三仏神様に「生きて罪を贖わせる」と言ってくれたけれど、 実際の処数多くの人間と妖怪を殺した自分が懲罰を免れる事などあり得ないように思えた。 だから何時か死刑判決が下される時は平然と受け入れようと決めていた。此の世に何の執着も残さずに。
それなのに欲が出て来たらしい。
望む事も赦されない筈なのに。
痛むのは、傷口を拵え抉る事が出来るのは。
花喃。
彼女だけだと思っていた。
これ以上自分が痛みを覚える事があるとは思わなかった。
これ以上自分を傷付ける事の出来るものがあるとは思わなかった。
刃物を振るった先に鮮血が飛び散り刃が肉を断つ手応えと共に立ち塞がったモノが生命を無くし只の肉塊へと化す。 骨に当たると刃が痛むから骨と骨の間を狙う、と意識するまでもなく冷静に返す手で更にもう一人。 人間も妖怪も只の動いて声を出す肉塊程度にしか認識する事無く殺し続けたあの日。
罪深い自分にはこの上何かを期待する事など赦されてはいないのだと。
欲深い自分に与えられた罰を。
息を吐き出しながら惨めっぽくならないよう、嘲笑った。震える拳は膝の上で固く握った。 愚かな自分を惨めだと思う事も赦されてはいないのだから。









その翌日、再び三蔵さんは昨日の医師を伴ってやって来た。医師だけでなく、助手と、それから何やらの機材と。
期待し過ぎる自分を戒めようと、もう何の期待もしてはならないと思っていたのに、 何故連日健診を行う必要があるのだろうとつい三蔵さんの方を伺うと彼は険しい表情でこちらを見ていた。 と言っても片目を眼帯で覆っているので詳細な表情までは読み取れないのだが何だか難しい顔つきをしている気配だった。 それから眉間に皺を寄せた侭何か言いかけて口を開いた。 然し早々に支度を終えた医師が僕に近付いて来ると三蔵さんは結局何を言う事もなく口を噤んだ。再度の簡単な問診の後、
「問題はないようです。では麻酔をかけますから寝台に横になって下さい」
と告げられた。
「麻酔・・・?」
何故、麻酔を?致死量の麻酔をかけて死刑執行と言う事だろうか。だが何の為に健康状態の確認をしたのかが分からない。
「ええ、義眼を嵌め込む手術を行いますから」
「・・・義眼?」
再度鸚鵡返しに問い返すと漸く医師が不思議そうな顔をした。
「法師様から説明されていないので・・・?」
「言い忘れた」
医師と助手に問い掛けるような瞳を向けられ即答した三蔵さんは気まずそうに横を向いた。 先程入室した時の何か言いたげな顔つきはきっとこの事を伝えようとしていたのだろうと気が付いた。
突然の話に驚いたがその場で医師から説明を受け、 麻酔による睡魔にあっと言う間に屈し人工的な眠りに陥る迄の数秒の間に、三蔵さんは存外可愛らしい人だと思い少し可笑しくなった。







目覚めは突然だった。
怠さを感じる事も無く、眼を開けるといきなり意識が覚醒していた。 壁と同じ色の白い天井が視界に入り自分が寝台に横たわっている事が分かった。
「眼が覚めたか」
横から話し掛けられ視線を転じると椅子を持ち込んだらしく寝台の横に三蔵さんが座っていた。 眼鏡を掛けて漢書らしきものを手にしている。
眼が悪かったのか。
普段は掛けていないので気が付かなかったがそう言えばよく眼を細めている。
思い出しながらふと違和感に気が付いた。自らの頭部を手で探ってみると右眼を覆うように包帯が巻かれていた。
「これは・・・?」
「外すなよ」
言われ、自分が何故眠っていたかを思い出した。
「義眼が安定するまでは外すなと言われた」
言い聞かせるように重ねて言われた。と言う事は本当にこの包帯の下には義眼が嵌め込まれているのだ。 生憎包帯が巻き付けてあるので触ってみても自分では分からないが。
「今何時ですか?」
ふとどれ位眠っていたのかが気になって尋ねてみた。
「夕方だ」
窓の無いこの部屋では太陽の角度から時間を読む事が出来ない。 灯りはあるがこんな薄暗い部屋で本なんか読んでいたら視力が落ちてしまうのに、 そう思ったがそんなお節介を言うのは立ち入り過ぎている気がしたので口には出さなかった。 三蔵さんの視線が自分の上に固定されているのを感じながら彼の手元の本にだけ意識を集中する。
「・・・三蔵さん。何故義眼を」
手術前に慌ただしく説明を受けている間にも少し考えたが眼窩にぽかりと穴の空いた侭の顔を見るのが不快だと言うだけの理由で (そんな事は三蔵さんから言われた事は無かったしいつも眼帯をして疵痕を晒さないようにしていたが) 死刑囚に呉れてやるには不要なモノだ。 そもそも決して安いものでは無い筈だ、もしかしたら死後に取り出して再利用出来るのかも知れないが。
「上手く行けば多少は見えるようになるらしい」
便利なもんだな、呟いてその人は自らの腰掛けている椅子とは別の傍らの椅子に築き上げられている書類と本の山の一番上に先程まで手にしていた本を置いた。
その山の高さから彼が自分が麻酔から覚めるまでずっと付き添っていてくれたらしい事が窺い知れた。
「何故ですか」
何故、自分にそんなものを?
何故、自分の為にそんな事を?
不要な筈だ、そんなものは。
本の表紙にその人がす、と走らせる指を眺め、指から手、手から腕、腕から肩へと視線を上げて行く。 白の法衣は弱々しい蛍光灯の光の下でさえ冴え冴えと白かった。
「・・・此処から出たいか」
眼鏡を片手で外し三蔵さんが尋ねた。本物の、菫色の瞳がひたりと僕を見据える。
意思の強い、偽りを赦さない眼だ。
『いいえ』と答えかけて留まった。 是と答えれば出られる訳でも、改悛の意を試す為に否と答える事を希まれている訳でも無く、問答を望まれている訳でも無かった。
「・・・分かりません」









「悟浄さんに会ってお礼を言いたいです」
少し前にその名を口にした時と同じく、微かに俯いて然し今度ははにかむような笑みを見せて猪八戒はそう答えた。

「では言葉を変える。此処を出たらやりたい事はあるか」
処罰の決定を待つ迄の身の置き場である此の房から出ると言う事、即ち罰を免れ罪を赦されたいかと尋ねたところ猪悟能は 「分からない」と答えた。 問いを変えると世話になった沙悟浄にきちんと礼を述べたいと、そう告げた。
きちんとも何も斜陽殿にこいつを拘引する日、別れ際に散々ぺこぺこ頭を下げていただろうがと少し呆れた。
あんな鬱陶しい頭とちゃらついた服装のウザイ外見と浮っついた態度でウダウダと根暗な内面を隠している男の、 何がそんなに気に掛かるのか。 あの男がこいつを気にしていたのと同様、こいつもあの男が気に掛かると、そう言う事なのだろうか。 二度と会う事もないだろうと思っていたヤツなのにこいつがこんな様子ではそうもいかないのかも知れない。 そう思ったが口に出しては
「そうか」
とだけ言った。


「八戒」
「はい」
呼ぶと其れは与えられたばかりの新しい名だと言うのに馴染んだもののような顔で言葉を返した。 無罪放免になったとは言ってもまだ保護観察期間中だから呉々も騒ぎなどは起こさないように・・・ と告げるつもりだったがその顔を見て止めた。
「いや、何でもない」
そう言うと何が面白いのかにこりと笑って猪八戒は口を開いた。
「初めて、三蔵さんから名前を呼んで貰えました」
沙悟浄宅に潜伏していた期間を含め結構な期間外に出る事の無かった為幾分青白くなった優しげな面もちでたかがそんな事に一人静かに拘泥していたのだと告げ、 笑みを深めた。
最早泣き笑いのような表情では無く笑みしか見せなくなったが。
この男が『大罪人・猪悟能』なのだと分かった。
虫も殺せないような美しい指の持ち主で、たった一人の人間への執着から千もの妖怪を殺し得る狂気にも似た熱を胸裡に抱く男。
その狂気の反面、直ぐに死んでしまってもおかしくないような現世と縁の薄そうな男。
「・・・そうか」
「はい」
仮釈放の条件は幾つかあった。猪悟能の名を捨てる事、三仏神から下される任務の手伝いを負う事、一定期間毎に自分に身辺報告に上がる事、 身元引受人を見付ける事──それは自分が引き受けた。
「次の面会日を忘れるなよ、八戒」
「はい」
お前はもう猪悟能ではないのだからと名を再び呼んでやるとそれは嬉しそうな顔をした。
「もう行け」
そして新しい名を呼んでくれる者を見付けて来い。沙悟浄だけでなく、もっと多くの他の者を。
「はい。・・・有難うございました」
柔和な笑みを浮かべて一礼すると黒髪がふわりと揺れた。
頭を上げると再度微笑み、猪八戒は背を向けて歩き出した。 雑踏にその背中が紛れる頃、だだっ広い長安城内の地理を教えてやっていなかった事に気が付いた。一瞬追いかけようかと思い、止める。
猪八戒を送り出す為と言う名目で自分は寺の門扉までやって来ていた。 執務室に戻ろうと門に足を向けかけて、矢張り思い留まる。
通りに視線を戻してみても既に其処に八戒の姿は無かったが構わず歩き出した。




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「三蔵何処行ってたんだ?」
「ちょっとな」
「その包み良い匂いがする」
「良いか。この店の饅頭は数量限定で一人10個までしか買えねえんだからな。5つ以上食ったらぶっ殺す」

八戒さんを追っかけた訳ではなかったのです5つも食うんですね三蔵様。行列の出来る店で並んで買ったんですよ。

100題