ジャックナイフ
「生きて、罪を贖わせたく存じます」
三仏神の前に跪きそう言ったその人は顔を伏せていたのでその表情は見えはしなかった。
抜き身の刃物のように凶悪なまでに鋭利な声が相手の出方を窺うような色を滲ませた事が心底意外な気がしたが自分が対峙しているのが、
只の市井の住人であったなら一生直に相まみえる機会などありはしない神仏である事を考えるとそれも致し方無いのだろうとも思いもする。
「全うに、平穏無事に暮らしている無害な人間」は少し前に卒業してしまったので今更自らを「無辜の民」
などと言い張るつもりは無いが、身分と言う点で言えば最下層とまでは言わないが間違っても現世の神仏に直接お目通り出来るようなものでは無かった。
そしてその自分の身の上が傍らで面(おもて)を伏せている人を此処、斜陽殿にわざわざ出向かせているのだと思うと不思議な気がする。
「追って沙汰があるまで猪悟能の身柄は玄奘三蔵の預かりとする。──良いな」
自分の右斜め前で片膝をつき顔を伏せたきりの背中と、
その人の前に聳えるように広がる水膜と、その水の中に投射されている神仏達の顔(かんばせ)と、
初めて見る建物の内部をぼんやり眺めていると何時の間にか話は決まったらしかった。
「──は」
低く一言返答する声を、金色の髪が一層深く項垂れ視界から金の色が消えるのを惜しみながら聞いた。
「僕はどうなったんでしょうか」
触れる者もいないのにひとりでに閉まる分厚い石の扉を振り返った後、扉の前の石段を下りながら前を歩く人に尋ねた。
まだ午後の早い時間らしく強い陽の光に洗われる白い着物が眩しい位に明るく見える。
「聞いた通りだ。処分が決まる迄はお前の身柄は俺の預かりになる。寺院内に部屋を用意させる」
「でも」
「勘違いするな。お前に選択権は無い」
迷惑ではないか、
そう思ったのだが白い法衣の裾をはたりと翻らせ慣れたもののように石段を降りて行くその人には何を言おうとしたかは見透かされていたらしくぴしゃりと告げられた。
不思議な人だと思う。
自分と年齢もさほど変わらないだろうに初めから大量殺戮犯への畏れを微塵も抱いていなかった。
一千もの妖怪を殺した男を捕らえに来るのに幼い悟空とただ二人きりでやって来た。
親しみも暖かみもなく冷たささえ感じる強い口調には然し不殺生を謳う仏門に帰依しているにも関わらず殺人者への嫌悪も忌避も感じ取れない。
全てが燃え尽き灰燼と帰したあの場所で生きる事を止めてしまおうと思っていた自分に死ぬなとも生きろとも告げもせず只可能性だけを指し示して見せた。
あの日から片時も忘れた事のない最愛の女性の事を考えるのを止め何時の間にか眼の前の人の一挙一投足を見守っている自分にふと気付く。
本当に不思議な人だと思う。
長い石段を降りきった処に待機していた初老の僧侶が話し掛けるのにその人は鷹揚に頷いてから一言告げた。
「手錠を外してやれ」
そう告げられた墨染めの僧衣姿の僧侶が驚いた様に動きを止めるがその言葉を聞いて僕自身も驚いていた。
「し、然し」
「構わん。外せ」
「は・・・」
重ねて命じられがちゃがちゃと不快な音を立てながら金属の戒めが両腕から外されるのを確認するとその人は背中を向けた。
「行くぞ」
そう言えば此処に来る迄もこうやってこの人は自分に背中を見せて歩いていたと思い出す。
一時恭順を示したからと言って千もの妖怪を殺めた男に平然と背中を向けるなど普通はしないのではないだろうか。
数瞬訝しんだ後、それは僕がこれ以上人を殺めないと『知って』いる証なのだと不意に気が付いた。
長安に戻り寺院内に用意された部屋──『懲罰房』と謂う処なのだそうだ──に移され自ら抉り取った眼窩の検査と、
それから開いてしまった腹部の怪我の手当を受けた。
窓が無い事を除けば割に広くて清潔で、寝台すら備え付けてあってさほど不快な場所では無い。
扉に鍵こそ掛かっているがその気になれば何時でもこんな場所から逃げ出す事は出来る。
肉体が妖怪に変化してからは人間にはあり得ない程の筋力を得たのでこの程度の壁だったら何時でも破壊出来る。
その程度の造りだ。勿論今更逃げるつもりは無いし自分が逃亡する事は無いと知っているが故の処置なのだろう。
三度三度差し入れられる食事に薬も毒も盛られる事も無く、
一日する事も無く読む本も無く只独り壁に向かっているのでなければ戒めの為に閉じ込められているのだと言う事も忘れてしまいそうになる。
──否、それは嘘だ。
独り寝台の上に座り背中を丸めて白い壁を見つめていると色々な事を考える。
花喃。
最愛の半身。
この両手を血に染めてそれでも取り戻す事の適わなかった人。
この肉体をも変化させた事はただの一度も後悔していない。
だが、考える事はある。
自分を引き留めた力強い声、言葉。
『お前が生きて変わることもある』
そう告げた太陽のような黄金の髪の人。あの言葉は何を意味しているのだろうと幾度か考えた。
あれだけ多くの生命を奪った自分が死罪を免れるとは考えにくい。
生きて、死んで。
自ら死を望んでいた自分が死の時期を引き延ばされ、生に、死に向かい合う。次にこの部屋を出る時は恐らく断頭台に引き立てられる時だ。
ならば変えられるのは自分自身の心の在りようだけだ。
他に何も在りはしないのではないか。
それでも、変える事に、変わる事に意味があるのだろうか。
顔を上げると眼の前に在るのは白い壁だけだ。然し金色のあの人の纏っていた目が痛い程の衣の白さと比べると昏くくすんで見える。
あの人は今頃何をしているのだろう。
この部屋に来てからなんだかあの人の事ばかり考えている。
食事を差し入れる僧侶とは言葉を交わした事はおろか視線すら合わせた事がない。
だけどあの人──三蔵さんだけは日に一度必ずこの部屋にやって来ては僕に言葉を発する事を促す。
「話をしろ」
「話、ですか・・・」
「何でも良い。話してみろ」
話をと言われても一日部屋に閉じこもっているだけの身で何を話したら良いか、
最初は戸惑ったが少し前までは子供達相手に毎日色々な話をしていた事を思い出した。
授業中に騒ぎ始めた子供達の注意を引き戻す為に、例えば昔、紙の無かった時代の人達が何に文字を記したか。
何故雨が降るのか。何故虹が七色に見えるのか、紫陽花の花の色は何故様々なのか。
子供達にしたのと同じ話を最高僧にするなんて、と少し可笑しくなり独り笑う。今日三蔵さんが来たらもっとマシな話をする事にしよう。
そう言えば自分が受け持っていた子供達はどうしているだろう。
自分達の教師が大量殺戮犯と知りショックを受けている事だろう。
僕が殺した村人の中に生徒達の身内も混じっていた。刃物を振るって村人達を惨殺した瞬間、子供達の笑顔が脳裏を過ぎる事は無かった。
何故こんな事を今の今迄忘れていたのだろう。
今度三蔵さんにその話をしてみようと思う。
だが、その日三蔵さんが懲罰房に姿を現す事は無かった。
盗品を売買している奴らの話を聞き付けて夜の町に出向いた。
だがとんだ小物で目当ての品を扱ってなどいる筈も無いと早々に察し立ち去ろうとした処難癖を付けられた。
自分の、下町に不似合いな悪目立ちする容貌は自覚している。その為法衣で無く私服で来たのだがそれも無駄だったらしい。
役人の手入れの為の視察と思われたのか、或いは不本意且つ不愉快だが対抗勢力の敵情視察と思われたのだか、部屋の片隅、
灯りの届かない場所に黙って立っていた用心棒共がうっそりと扉の前に立ち塞がるものだから遠慮無く叩きのめした。
三仏神の使いで来た訳では無いのでこんな小物見逃してやろうと思っていたのに自ら進んで痛い目に遭いたがるとは愚かな奴らだ。
無駄足も踏んだ事だし明日になったら官吏を手配して引っ立ててやらないと腹の虫が治まりそうに無い。
忌々しく思いながらある通りの前を通りかかった時聞き覚えのある、つい先程聞いたばかりの音が小道から聞こえて来た。
重量のある物──有り体に言ってしまえば人間だ──が地べたに倒れ伏す音だ。
何気なく覗き込んでみると其処には見覚えのある長身の男が居た。
横たわる男を尚も嬲るように蹴りを入れるとまだ意識はあるらしく弱々しい声が上がり、
片方の手をズボンのポケットに突っ込んだ侭長身長髪の男が何事か言っているがその内容までは聞こえて来ない。
「その辺にしておけ」
勢いを付けて腹部に分厚いブーツの底を叩き込もうとしたその動きを見て制止する。
倒れた人間の腹なんぞ蹴り入れたら悪くしたら内臓破裂を起こして死んでしまう。
「あれ、あんた・・・また何かお仕事?」
立ち位置は変えず頸だけ向けた赤い髪の男が、こちらの姿を視認して薄笑いを浮かべる。
振り返った瞬間の醒め切った瞳が自分の姿を認めた途端作り物めいた薄っぺらい笑いを浮かべたのを見て無意識に眉を顰める。
「偶々通り掛かっただけだ」
「こんな時間にこんな場所で?」
「何時何処に居ようが俺の勝手だ」
舌打ちして歩き出すと思った通り赤毛男も後からついて来たので小さく溜息を吐く。
倒れた侭の男に仕上げの一撃を呉れてやるのは止めにして思惑通りこちらに関心を移したらしい。
泥にまみれヒイヒイ言っていた男はまだ意識はあるらしいからこいつが目の前から立ち去りさえすれば自力で起き上がって後は何とかするだろう。
チンピラ同士の揉め事など自分には何の関係も無いし歯を叩き折られようが骨をへし折られようが俺の知った事では無いが、
一応見知った人間がその場の勢いだけで人を殺すのを見逃す訳にはいかなかった。
人間ならともかく半妖のコイツが正当防衛でもなく人を殺したのがバレたら死罪は免れ得ないだろう。
最大限に減刑されても流刑までだ。
いや待てそれではまるで俺が此のナリだけは派手な根暗赤毛の身を案じているようではないか。
「待てっつうの」
自らの思考を不快に思い歩を早める。
「おい、アンタ──」
声と同時に肩に手が掛けられるのを勢い良く振り払う。
「触るんじゃねえ」
「だったら止まれっての」
「俺に命令するな」
「この坊主・・・」
危うく初対面の時のような掴み合いになりかけるが頭の中で力の違いを冷静に計算する。
普通の人間相手なら正面からの取っ組み合いだって負けない自信はあるが半妖だけあってコイツは力が並大抵では無く強い。
それは先日組み敷かれた腕を腹の立つ事に自力では振り解けなかった事から分かっている。
今真っ向からやり合うのは得策では無い。
「・・・俺に何か用か」
忌々しいが仕方ないのでこちらから話を切り出してやった。
「用って程じゃねえけど。あんた何処行くの」
「何処に行こうが俺の勝手だ」
「何でてめえはいちいちそう・・・」
「用はそれだけか」
そんな事の為に人を呼び止めやがって馬鹿馬鹿しい。奴が気色ばむのを無視して再び進路に向かい足を向ける。
「あんたこれから寺に帰んのか?」
「いや。宿を取ってあるから寺に戻るのは明日だ」
「そっか」
「寺がどうかしたか」
「いや別に・・・」
もたもたと視線を逸らせて何事かを口籠もるのに苛々して来る。俺はとっとと宿に行って寝てえんだよ!
寺に居たら疾っくに就寝の時間は過ぎている。
「遂に頭を丸める覚悟がついたか」
「ああ?ちげーよ!ただアイツはどうしてるかなと・・・」
「あいつ?」
「・・・猪悟能だよ」
落ち着かなげに煙草を銜えながらそいつが告げた。
「さあな。まだ沙汰待ちだ」
「・・・そっか」
そう答えると少しほっとしたように掌中のライターを見る振りで視線を落とし煙草に火を点けた。
そう言えばあの日もこいつは『簡単に死なれちゃ困るっての』とか何とか苦しい言い訳をしながら猪悟能の動向を妙に気に掛けていた。
手前には何の関係も無いのに人の好い事だ。そうでなければ只の閑人かお節介か、そうでなければ最悪の回答だが『同病相憐れむ』と言うヤツだ。
「話はそれだけか」
「あ、ああ」
沙汰待ちと言う事は未だ処分が決定していないだけで安心するような事では無いのに莫迦な奴だと思いながら踵を返した。
先程と同じ場所に立ち止まり情けないツラを晒した侭もう言葉を掛けては来ない男に自らが減免嘆願した事も教えてやる気にはならなかった。