ビートルズ
雨が、降りそうだと。
「今帰りですか?」
会社を出た処で空を降り仰いでいたら声を掛けられた。振り返ると新入社員の藤井が立っていた。 新入社員が各部署に配属になって早2ケ月。 社は縦割り制の事業部制なのであまり他部署間の横の繋がりは無い。 同じクライアントを知らず違う部署同士で奪い合っている事もある程横の連携が取れていないのだが、 配属前の研修期間には一通り全ての部署の説明をしてやる。 その新人の引率と言うか研修担当が俺の仕事の一つだ。 だから自分の後に入社したヤツの名前と顔は全て知っている。全ての新入社員に顔と名前を知られてしまっていると言っても良い。
「ああ」
「玄奘さんはJRですか?」
そう問い掛けながら藤井は当然のように駅の方角に向かって歩き出そうとする。 確かこいつもJR利用だった。と言ってもJRも地下鉄も駅はほぼ同じ場所にあるので電車通勤の人間は皆同じ方向へと帰る事になる。
「いや。俺はこの近くだから徒歩だ」
藤井の歩き出そうとしていたのと反対方向に向かい顎をしゃくる。
然し藤井は別れの言葉を告げずそこに立ち止まった侭だった。
「あの、じゃあ急いで帰らなくても大丈夫ですよね?」
歯切れ悪く切り出された台詞には思い当たる節があった。
『じゃあ』の意味は『通勤に時間がかからないなら』と言う意味なのは分かるが『お時間ありますか?』 と尋ねるべきだろうと言いたかった。どうなってるんだあの部の新人教育は。
「お茶でも飲んで行きませんか」
配属されて2ヶ月も経てば部内での仕事に対し不満やら疑問やら色々湧いて来る。 同じ部署の先輩に対しぶつけて良いものだろうか、そういった遠慮のあるヤツがこうして話相手を求めて来るのは珍しい事では無い。 正直言って面倒くさいのだが新人の面倒を見てやるのも仕事のうちだ。 然し相談に乗るのは吝かでは無いが自分で言うのもなんだが別段愛想が良い訳でも無い、 話術が巧みな訳でも無い自分を相談相手として選ぶのは間違っていると思う。 勤務先こそ違うが仕事を通じて知り合った赤い髪の男ならばこういった時上手く話に乗ってやれるのだろうなとふと思ったが、 自分に無いものを今更望んでも仕様が無い。
「別に構わんが」
承諾すると藤井は顔をくしゃくしゃにして笑った。短く切った髪に大きな耳、 そしてこんな表情をするとちょっとこいつは猿っぽい。
「スタバとタリーズどっちが好きですか?」
「近い方で良い」
「じゃ・・・あ、済みません」
聞き覚えのある何とか言う曲の着メロが鳴った。藤井の携帯だ。
「・・・うん、うん・・・今会社の前」
話しながら藤井がちらりと俺の方を見る。
「済みません。あの、電話、藤田からで」
「・・・ああ」
電話を切ってから藤井は同期の名を告げた。新人研修の時50音順で組ませていたから似た名前の藤井と藤田は当然同じ組だった。
「これから飲みに行こうって」
「そうか」
「あの、俺から誘ったクセに済みませんっ」
90度の角度でお辞儀するその姿を、ああ、こいつは体育会系か、と感慨もなく眺める。 謝るのならその「あの、あの」と言う口調の方だろうと思うのだが。
別に、そう言いかけて悟浄の口にしそうな耳障りの良い言葉を選んでみる。
「気にするな。折角の同期との飲み会だろ?遠慮なく行って来い」
「あのっ、もし良かったら一緒に」
「気を遣うな。楽しんで来い」
「ホントに済みません。今度埋め合わせしますっ」
埋め合わせして貰う程大袈裟な間柄じゃねえだろうが。少し苛々してきた。
「何処で待ち合わせだ?」
気休めの言葉を言うのも飽きたのでさっさと会話を切り上げる事にする。
「あ、ここで・・・」
「そうか。じゃあな」
そう言ってとっとと背中を向けて歩き出した時先程の着メロはビートルズの曲だと思い出した。





この空模様だとあいつらがお開きにする頃調度降り始めるかも知れない、家に着いた時思った。 傘を持っていなかったので早いうちに帰れて良かった。
そう思ってから嫌悪した。雨に濡れる後輩の心配より自分の事が優先か。
そう、考えてしまったら会社にいた間は何とか保たれていた堤防が崩れ始めた。


雨は嫌いだった。
毎日雨の降るこの時期になると水滴に自我が溶けそうになる。
消えて、無くなってしまえば良い。
地上に降り注いだ雨がやがて川に流れ込むように流され個など消えてしまえば良いのにまだそこに在り続ける自分に対して。
自己の抹消を願うあまり自己嫌悪が酷くなる。
否、自己嫌悪が酷いからこそ消えてしまいたくなるのだこの時期は。
あまりにも無力で。
全てに対して。
何も出来ない自分が嫌いで。


ぞくりと身震いして何時の間にか座り込んでいた床から立ち上がって頭を振る。 雨が降るとこうして暗い方へ思考が傾斜して行くのは自分の悪い癖だ。
ワイシャツのボタンを外しながら冷蔵庫を覗き込む。ここ暫く食欲が無くて買い物に行っていなかった。 料理でもすれば気が紛れるかと思ったが未だ身体が食事を受け付けないらしいので冷蔵庫の扉を閉める。 梅雨時にモノが食えなくなるのは毎年の事なので良い加減自分でも対応は分かっている。
夏期に暑さのあまりモノが食えなくなるヤツには夏バテと言う言葉が与えられるのだから梅雨が苦手な人間の為に梅雨バテと言う言葉を作れば良いのだ。 梅雨が明けて夏が来ると寧ろ清々する。
着替えを済ませてからソファに深く腰掛けて缶ビールを口に運ぶが味覚まで愚鈍になっているようで味を感じない。 美味いとも不味いとも思わず飲み干し二缶目を冷蔵庫から取り出した時インターフォンが鳴った。

こんな時間に誰だ?

疑問に思いながらドアスコープを覗くと赤い色の髪をした男が立っていた。珍しい事にスーツを着ている。
「いきなりゴメン。これ土産」
悟浄のスーツ姿を見るのは何時以来だったか考えながらドアを開くと悟浄は手にした包みを掲げて見せた。 そう言えばシステム導入の説明の為にクライアントの支店に出張だと聞いていたが。
「博多か?」
「そ。ここ有名な店なんだって。有名なトコって名前ばっかで大した事ない店多いでしょ? でも試食したらちゃんと美味かったぜ。生でもイケるから酒のつまみにでもしてよ」
そう一気にまくしたて明太子の箱をこちらに押し付けて帰ろうとするので慌てて引き留める。
「待て。土産を届けに来ただけか?」
「なんでそーゆーコト言うかな。ここんとこ忙しくて逢ってなかったじゃん」
一瞬きょとんとした後不満そうに唇を尖らせたのを見て、自分の意図が丸きり逆に悟浄に伝わったのだと分かった。

・・・どうして自分はこうなのだろう。

わざわざ土産物の為だけに出張帰りに家に帰るより前に(荷物とその格好を見れば分かる)自分の処に来てくれたのかと。 そう訊ねたつもりだったのだが悟浄にはそんなコトの為にこんな時間に押し掛けて来たのかと、そう訊ねたのだと思われたらしい。
それでもいつも悟浄は言葉の足りない自分の意図を汲んでこちらの望む事を先回りしてくれるが、 本当はそんな事に疲れているのではないか。
言葉を訂正すれば済む筈の些細なすれ違いに大袈裟に反応してしまうのは神経が摩耗しているからだと冷静に判断する。 自分に対する客観性は失っていないが、それだけだ。「病んでいる」と。 他人事のように感じ取りはするが原因が分かったからと言って傾斜する心を止められる訳では無い。 こんなに病的に気鬱なのは今の時期だけだと分かっていても我ながら鬱陶しい。
「・・・・・・」
「三蔵?ごめん、もしかして寝てたトコだったとか?」
黙り込んでいると悟浄は慌てたように顔を覗き込み、納得出来る理由を勝手に見付けて自分が悪かった事にして謝った。
「違う・・・少し疲れてて・・・」
頬に触れる悟浄の指先が暖かい。悟浄に触れられると、いつも暖かくて心地良い。
「そう言えば顔色が悪いな。大丈夫か?」
「ああ」
「そっか。んじゃ帰るわ。今日は夜更かししないで寝ろよ」
「帰るな」
髪に指を差し入れてくしゃりと掻き混ぜてから悟浄が踵を返そうとしたので袖を掴んだ。 自分でも少し思いがけない程衝動的な行動だった。
「いや、だって三蔵疲れてんでしょ?」
「一人でこんなに食えるか」
渡された土産の明太子の箱を悟浄の目の高さに持ち上げて見せる。
「あー・・・俺もちょっと多いかなとは思ったんだけどさ。箱でしか売ってなかったんだもん。一週間位保つって」
「いいから上がれ」
「そ?じゃお邪魔します」
尚も強く誘うと悟浄がするりとドアの内側に身を滑らせた。
みっともない自分の姿を誰にも見せたくないと思っていた筈なのに。何故か強引に悟浄を家に招き入れた。





「誘ってんの?」
「そうだ」
出張先の事、仕事の事、近所の野良猫の事。生の明太子だけをツマミにぽつぽつと会話を繋ぐ。 唇を寄せるとゆっくり貪られた後冗談めかして訊ねられたから眼を見据えて肯定した。
「嬉しーけどさ・・・身体大丈夫?」
「何ともねえよ」
悟浄の艶やかな髪に指を差し入れて頭を抱き寄せるようにして舌を絡める。
「舌先に明太子の感触がする」
そう言って少し身を離して悟浄が肩を揺らして笑う。先程からしつこい程歯列を探っていると思ったらそういう事だったのか。
「お前もだ」
「そりゃあね」
照れ隠しに言い返すと悟浄は更に笑った。
「じゃ、歯でも磨いて来ますか・・・風呂の支度しちゃって良い?」
「ああ」
出張帰りで疲れている筈の悟浄を更にこき使う為に家に上げた訳では無かったが・・・。
マメなヤツだと思いながらテーブルを片付け、 残りの明太子を冷蔵庫に仕舞う為キッチンに足を踏み入れた時小さな窓に雨が叩き付けている事に気が付いた。







「ヒ・・・うあッ・・・や・・ぁっ」
がくがくと悟浄に脚を高く抱え上げられ揺さぶられながら自分でも信じられない程淫らな嬌声を零す。
「・・・あ、ああっ・・・悟、浄っ」
大きく両脚を割り開かせられ見るに耐えない姿を晒している筈の自分は、それでも尚自ら悟浄に腰を押し付ける。
「く・・・っ」
悟浄が荒く息を吐いて奥深く突き上げたかと思うと繋がった部分に熱いモノが迸った。 受け止めきれなかった精液が溢れ伝い落ちシーツを濡らし始める。 二度、三度と腰を揺らし全てを注ぎ込もうとするかのように悟浄が腰を打ち付けると甘い痺れに全身がびくびくと痙攣する。
悟浄が楔を引き抜くと体内の圧迫感は消えるがまだ息は整わない。
「さんぞー・・・」
深く息を吸っては吐き出しゆっくり上下している自分の胸にくたりと頬を乗せて来る悟浄の髪の感触がくすぐったくも心地良い。
本当はずっと悟浄に逢いたかったのだと、こうしてこの体温を感じていると分かる。
養父の亡くなった後引き取られていた寺を出た時一番ほっとしたのはこの時期誰にも構われなくなる事だった。 気遣うように声を掛けて来る事のない朱泱やわざとはしゃいでみせる悟空。 そんな気遣いを煩いとも嬉しいとも感じ取る事さえ出来ず雨が止むまで部屋に籠もりきりになっていた。 ただ酸素を消費する事だけが人形との違いであるに過ぎない生きている感覚が希薄になるこの時期に。
逢いたかったのだ。
この男に。
後輩と話をしながら幾度となく思い出してしまう程に。


胸の上に広がる赤い髪を指先で絡め取り口付ける。
「食うなよ」
顔を上げた悟浄が自らの髪の行き先に気が付いてそう言うのが可笑しくて少し笑った。唇を開き少しだけ赤い色を口に含んでみる。
「・・・ナニ。腹減ってるの」
「そうかもな」
「明日の朝飯は白米と焼きタラコ」
言い乍ら悟浄が首を伸ばし軽く口付けて来る。
「勝手に決めるな」
「いいじゃん。どうせ三蔵は朝和食だし。残った明太子は昼にパスタにしよ」
「だから勝手に人んちのメニューを決めるな」
「一人じゃ食い切らないんでしょ」
言って、悟浄はお返しとばかりに俺の髪を引っ張った。 大して長くもない髪が指に絡まる筈も無く髪が悟浄の指をすり抜ける感覚と共に頭皮を引っ張られる感触はすぐに消えた。
「残った分は」
「夜に酒のツマミにする」
何でお前が人の家の献立を勝手に決めてるんだと再度言おうとして諦めた。
「野菜も食え」
「りょーかい」
そう言って悟浄がくすくす笑うと振動が伝わって来て、意味も無く笑いたくなった。

ひとしきり笑って不意に訪れた静寂に悟浄が顔を上げる。
「雨降ってる?」
「ああ」
「何時から降り始めてたんだろ」
「結構前だ」
ふーん、と言って悟浄が腕を伸ばして俺の躯を抱き竦めてもぞもぞと布団に潜り込む。
「何だ」
「寝よ寝よ。雨の音聞いてると眠くなるんだよね」
「そういうものか?」
「そうなの」
断定し、言葉通り悟浄は目を閉じて疲れている所為もあるだろうが驚くべき早さで寝てしまった。 少し呆然としながら再度悟浄の髪を指で弄ぶ。
目の前の悟浄の寝顔を眺めてから目を閉じた。 悟浄の髪に絡めた侭だった指先から力が抜けてぱたりとシーツの上に落ちるのを瞳を開ける事無く確認する。

穏やかな眠りが訪れそうだった。

携帯電話の続き。

付き合い初めて約1年。

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