紙飛行機




長く続く物音に八戒が目を覚ましたのは夜明けの冷たく湿った空気が鼻先に纏わり附く時間となった頃だった。 けほけほと乾いた音と共に息を吐き出しては空気の抜け切った肺に酸素を取り入れようとひゅ、 と喉を鳴らし、気道に入り込んで来る冷気に噎せ返っては苦し気に再度咳き込んで・・・と言う事を繰り返しているのは三蔵だった。 睡眠の足りない目覚め切っていない頭で「三蔵風邪を引いたのか・・・」とぼんやりと思い、 それから三蔵は数日前から具合が悪そうだったと思い出し瞼を開いた。
昨夜やむを得ない事情で宿を出たのは日付が代わってからだったので夜明けまでそう遠くないだろうと火の見張りは立てないでいた。 寝る前に起こしておいた火は当然ながら疾うに消えており既におき火の状態ですらなかったので火を起こして少しでも三蔵を暖めなくてはと八戒が横たわった地面から起き上がれば毛布を掛けず直に地面に寝ていた悟浄が盛大にくしゃみをした。





簡単な朝食の後直ぐ野営の跡を片付けて次の町を目指しジープに乗り込んだ。 幸いな事に今度は赤茶色の道路を走行する間に敵襲に遭う事も無く昼前に町に着いた。 大人しくジープの狭い座席に収まっている事の苦手な悟空にとっては常ならば「幸いに」 とは間違っても思えない事態だった筈だが然しその悟空が口に出しては言わないが恐らくは一番三蔵の事を心配していただろう。 騒ぎ立てる事も出来ずじっと黙り込んで自分の膝頭をただ眺めるだけのその姿は何故か見ている側が申し訳なく思ってしまう程で誰も気休めの言葉を掛ける事も出来なかった。
町に入って一番最初に目に付いた宿屋の前でジープが音を立てて停車したのはチェックインには少し早い時間だったが宿の者に連れの具合が良くないからと頼み込むと快く宿泊を承諾してくれた。
こんな事なら多少無理をしてでも昨日の町を素通りしてこっちの町に泊まれば良かった、 それとも野宿などしないで夜通し走り通して朝一番に町に駆け込んだ方が良かったのだろうかと八戒が密かに溜息を吐くと見かねた悟浄が 「あんま気にすんなよ」と声を掛けた。
数日前濡れた衣服が完全に乾ききらないうちに出発だと言ったのは三蔵だったし、 街に戻らずこの先野宿続きになると分かっていながら先へ進めと言ったのも三蔵自身だった。 少し具合が悪いだけだと思っていた三蔵の症状がみるみる悪化した頃には、 戻るのも次の街を目指すのもどちらを選ぶにしても距離は大して変わらない辺りにまで来てしまっていた。 大体、2回河に落ちたのは4人共同じであるのに三蔵だけ具合が悪くなると言う事は泳げない三蔵にとって溺れかけた事は心理的負担が大きかったのかも知れない、 そもそも三蔵は人間であって妖怪である自分達とは頑強さが違うと言うのに。 その辺りをもっと自分が気を付けるべきだったと、続く八戒の自戒の言葉を悟浄がわざとふざけた口調で遮る。
「お前俺だって風邪ひいてんの忘れてるだろ」
「毛布も掛けないで寝てる人の風邪は自業自得です」
悟浄の心遣いを受け止めて無理矢理にでも「通常モード」に戻ろうとする八戒が美しい眉をハの字を描くカーヴに歪めながらそれでも皮肉で応じる。
そんな訳で「具合の悪いお連れの方にどうぞ」と宿の従業員の若い女性が籠に入った果物を持って現れた時、 一早く反応したのは年長者達の気苦労の見える会話に参加していなかった悟空だった。
「これ本当に貰って良いのか?」
「はい。ビタミンが豊富ですから沢山召し上がって下さいね」
「うん、ありがとなっ!悟浄、八戒、俺三蔵のトコに届けて来るなっ!」
言うが早いか八戒達の大反省会を振り向きもせず悟空は真っ直ぐに三蔵の部屋を訪れた。
「さんぞー?」
一応小さく声を掛けてから返事が返って来ないのを待ちドアノブに手を掛ければ鍵は掛かっていなかった。 先程三蔵の看病の為部屋に入った八戒が今後何度も部屋に出入りする事を考えて鍵を掛けないでおいたのだ。
三蔵が眠っているのを見て悟空は声を掛けず果物の入った籠をサイドテーブルに置き背凭れの無い椅子を寝台の横に引き寄せて腰を降ろした。
寝入る前に再度酷く咳き込んでいた三蔵だが今は薬が効いてきたらしく多少呼吸が穏やかなものとなっている。 朝方には熱で紅潮していた頬も少しは赤みが引いているように見える。
黙って三蔵の寝顔を眺めているとイヤでも側に在る柑橘類の食欲を誘う匂いが悟空の鼻孔を擽る。 三蔵が目を覚ました時、きっと三蔵もこの果物を食べたくなるに違いないと、 悟空はいそいそとその丸い橙色の果物を籠から取り出して三蔵に近い処、サイドテーブルのぎりぎり端っこに並べた。
宿の人も沢山喰えと言っていたし、こうして並べておけば三蔵も苦労せず手に取れるから腹一杯になるまで喰える。
へへ、と悟空が自分の仕事に満足した時、小さく呻く声が聞こえた。
「ん・・・・・・」
「三蔵?」
悟空の声が聞こえているのかいないのか、ぼんやりと薄く目を開きながら三蔵が顔を横に向ける。 三蔵の頭の下でからん、と氷嚢が涼し気な高い音を立てた。
「・・・・・・」
物憂げな仕草で毛布の下から伸ばされる腕。
「あ、これな、宿の人が三蔵にって。身体に良いんだって。全部喰って良いんだぜ!」
話し掛けた悟空の言葉には答えず、三蔵の指先が明るい橙色の果実の表皮に触れる。 然し三蔵がその果実を手に取る事は無く、表面をするりと撫でた拍子に橙色の果物はごろりと転がりサイドテーブルから床へと音を立てて落ちた。
「あっ!」
声を上げて悟空はその丸い果物を拾い上げる。前屈みになった悟空の耳に小さく呟く三蔵の声が届いた。
「・・・・・・かと思った」
「え?」
問い返しても答えは無く、三蔵は再び目を閉じて眠りに落ちていた。
「・・・・・・?」
カミヒコウキって何だろう。
何か自分の知らない食べ物の事かも知れない。
三蔵が目を覚ましたら聞いてみよう。
そう決めると、ウキウキと悟空は拾い上げた柔らかい蜜柑の皮に指を差し入れた。






紫暗の続き。

「よお、猿。三蔵の具合どうだ?」
「うぐっ」
「あっ、てめえが喰ってどうすんだよ!」
「ちがっ!コレは三蔵が床に落としてっ」
「三蔵サマ寝てるじゃん」
「でもさっき起きたんだって!」

冬じゃないつもりでいたんですが無意識に風邪=冬と思い込んでいたようでうっかり蜜柑登場。



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