ダアリヤ 3
「どうした?」
俺がその足元に視線を遣った事に気付いている筈なのに何事もないようにダリヤの男が再三着座を勧める。
何時までも立った侭でいるのも不自然なので仕方なく椅子に腰を下ろした。
俺の座る椅子の足元には不気味な染みは無いが、何となく落ち着かない。
背の高いガラスのコップを満たすのは矢張り赤い液体。
氷が幾つか浮いたその液体をストローで啜るが、甘みの全く無い味に眉間に盛大に皺が寄る。
「アイスティーにはガムシロップを混ぜた方が美味い」
そう言ってダリヤの男がコップの横にあった小さな器を傾け、何やらとろりとした液体をグラスに注ぎ込む。
飲んでみろ、と言葉に出さずダリヤの男が笑みを浮かべて示す。
口を付けてみると今度は甘みの混じった、飲める味になっていた。
「これなら大丈夫だろ?」
ダリヤの男が尋ねるのに無言で頷く。冷えたコップの感触が汗をかいた手のひらに心地良いと、漸く思えて来た。
人心地がついてふと見ると人に飲み物を勧めておきながら、ダリヤの男の手元には飲み物が無い事に気付いた。
「俺は先に飲んだから良いの」
今度は俺の視線を無視しなかったダリヤの男が目を細めてふ、と笑う。顔を傾けた拍子にダリヤの男の頬にかかる髪が流れ、左頬に走る傷跡が覗く。
大きな二本の傷。
どきりとした。
どうして今迄気付かなかったのだろう。
俺が頬の傷に気付いたことに気付いている筈のダリヤの男は尚も得体の知れない笑みを浮かべている。
「ここへは一人で住んでいるのか」
「どうして?」
「人の気配が、ない」
赤い瞳を見据えて問うが、ダリヤの男は黙った侭微笑み続けている。
「それに、飲み物を用意したのはお前だろう、使用人は」
かなかなかなかなかな
突然虫の鳴き声が割り込んで来る。
まるで、ダリヤの男の意思を反映したかのように。
「門の処まで送ろう」
威圧的にではなく、然し有無を言わせぬ力強さでそう宣言し、ダリヤの男が立ち上がった。屋敷に立ち寄れと言った時と同じ唐突さで。
ダリヤの男の後を付いて歩く古びた屋敷の中は赤い階段と赤い廊下が続く。矢張り赤い髪の男以外の人の気配が全くしない。
煤けた天井、裾のほつれたカーテン、誰の筆によるものか分からない絵画、細部の欠けた彫刻。
様々な色褪せた物達の間を通り抜け、屋敷の外に出る。
扉の向こうは屋敷の中の冷気が嘘のように、屋敷に入る前と変わりなく容赦なく眩しい。
庭中に溢れる光に目を細めた後、ダリヤの男が唇の端に笑みを載せてこちらを眺めている事に気が付いた。
「またおいで」
「もう来ない」
「そうか」
「そうだ」
何時の間に摘んだのだか、ダリヤの男は一輪の赤い花を手にしていた。
「またおいで」
そう言って、俺の手にその数多くの花弁を抱える花を握らせた後、俺の目の前で門扉を閉じた。
笑みを消さない侭俺ダリヤの男が俺を見守っているのは知っていたが、図書館の方角へ背を向けて元来た道へと歩き始めた。
ダリヤの男の髪の色に良く似たその花は、不思議な事にこの地を離れるその日まで散る事はなかった。
それから、十年が経った。
俺は文筆業で僅かな稼ぎを得るようになっていた。
出版社の求めに応じ机に齧りついて短文を書き散らす日々。
ふと、近々取り掛かろうと構想している文章の資料となりそうな文献を何処かで読んだ事があると思い出した。
思い出したと言うのは正確ではないかも知れない、確かに心当たりがあるのだが、何を読んだのかが思い出せなかった。
それとも人に聞いた話だったろうか、否、この目で活字を追った記憶がある。
遠い記憶を数日考えるでもなく掘り起こし続け、自らの蔵書ではないからこんなにも記憶が曖昧なのではないかと思い当たる。
例えば人に借りたのかも知れない。例えば誰かの家に上がってその家の本を読んだのかも知れない。例えば。
連日考えているうちに、子供の頃一時期過ごした事のある東北の地で読んだものではないかとぼんやりと思い出した。
あの白塗りの壁の図書館。
そして、図書館へ向かう途中の道に。
もうあの土地は訪れない方が良い、そう思いはしたが記憶に引っかかる文献の事を放り出せず、結局僅かばかりの身の回りの物を鞄に詰め込んで列車に乗り込んだ。
見覚えのあるようなないような、おぼつかない記憶しか残っていない町並み。
十年前に過ごした時と違って冬の訪問となった所為もあり、角を一つ曲がるのにも自信がない。
目印らしき物が殆どなく、ただひたすら民家ばかりが軒を連ねていた筈の道には、幾つかの店が並ぶようになっていた。
表通りに建っているのは洋服屋に洋菓子屋、ひっそりと残っているのは和菓子屋、そして煙草屋のあった筈の場所には新しい家が建っている。
なんとなく辿り着けるだろうと地図を持たずに来たのは失敗かも知れない、そう後悔しつつ何度か右へ左へと道を折れる。
鈍色の空の下、見知らぬ町のような気のする町をふらふらとおぼつかなげに歩いているうちに寒さで指先が痺れて来る。
はあっと指先に息を吐き掛け顔を上げると、突如、二度と訪れる事はないと思っていた屋敷が現れる。
最後に見た時と同じように庭一面に咲き誇る赤い花。
曇天を背に聳え立つ煉瓦屋根の洋館は、この世のものとは次元がずれているように見えた。
恐らくそうであろうと、十年前のあの時から知っていたような気がする。
何時の間にか群生するダリヤの間に背の高い男が立っている。
「また来たな」
ダリヤの男は、十年前と変わらぬ姿の侭だった。