ダアリヤ 2
数時間を図書館で過ごした後、来た時に通った一本道を図書館からくだんの屋敷の前へと遡るように歩いた。
あの曰くありげな建物についてわざわざ調べはしなかった。 敢えてそうした訳ではなく単に館内に足を運び入れるなり他の本に興味を引かれ、あの屋敷の事をすっかり忘れていたからだ。 恐らく今後もこの屋敷の前を通る度に気にしつつ、然し何時しか何ごともなかったかのように忘れて行くのだろう。
そう言った事は今迄幾度もあった。

黒塗りの鉄柵越しにダリヤの咲く庭を眺めてみても、最早ダリヤの男の姿は見えなかった。





夏の名残のような激しい夕立の降った翌日、仕事へ出かける父をいつものように玄関で送り出した。 父の仕事は順調に進んでおり、もうまもなくこの土地を離れる事になるのだろうと何とはなしに察していた。 だからだろうか、再び図書館へ出かけてみようと思い立ったのは。
適当に幾度か道を折れた後、一本道の大通りへと足を踏み入れる。 ようようと図書館迄の道を覚えかけていたが恐らくこれが最後の訪問になるだろうと、うっすらと感じていた。 借家から図書館まではそう遠くはないのだが、暑さに閉口し始めるのはいつも図書館が見え始めるこの辺りからだ。
陽を遮るものがないと分かっているのに、無駄を承知でそれでも木陰を求め長い道行を見遣り、ふうと溜息を吐く。

「また来たな」

密集したダリヤが庭を赤で埋め尽くしている屋敷の前を通り掛かると、またダリヤの男に声を掛けられた。 今度は驚しはしなかった。と言うのも声を掛けられる前からダリヤの男の姿に気付いていたからだ。
先日着ていたのと同じような白いシャツ。それと承知でいれば幾らダリヤの男の髪が花のように赤くとも、その姿を遠くからでも見分けるのは容易い。
「この屋敷に用がある訳じゃない。たまたま途中にこの屋敷があるんだ」
「そうか」
庭の中程からダリヤの男が歩道側の鉄柵沿いへとやって来たので脚を止めた。近くから見上げると思った以上に長身であるように感じられた。 ダリヤの男はかしゃんと音を立てて軍手を嵌めた手で黒塗りの鉄柵を掴み、次いで鉄柵に覆い被さるような格好で顔を寄せた。
視線の先の軍手は、土に汚れている。
「少し、涼んで行ったらどうだ」
「何を」
「ここは一本道だ。どうせ行く先はあの図書館だろう?見ればこの暑いのに帽子も被っていない。だったら少し休んで行った方が良いと思うがね」
「使用人が勝手に道行く人間を招待か。一体そんな勝手が」
刹那、ダリヤの男は声を立てて笑った。
「使用人か、そりゃあ良い」
笑う男に訝しみ、問う。
「使用人でないのなら庭師か?」
「どちらでもない。俺はここの家の者だ」
ダリヤの男は凭れ掛かっていた鉄柵から身を放し、優雅に胸を張った。



涼んでいけと言われた通り、屋敷の中の空気はひんやりとしていた。
敷き詰められた赤い絨毯はやや色落ちしていて、古めかしい屋敷の外観と相俟っていた。
矢張り絨毯の敷き詰められている階段を上り、時折絵画や彫像の飾ってある廊下の奥の一室に通される。
赤い階段。赤い廊下。赤い花。赤い瞳と赤い髪の男。
何もかもが、赤い。
案内された部屋に俺一人を残しダリヤの男は退室した。座るようにと指し示された椅子の横をすり抜け、庭に面した大きな窓に向かう。 少し乱暴に扱ったら破けてしまいそうな年代物の薄い紗のカーテンをそうっと押し開き、庭を見下ろした。
赤一色に染まっているように思えた庭のダリヤは、こうして見下ろしてみれば黄色に白に橙に、幾種類かのそれぞれ異なった品種が混じって植えられていることが見て取れた。
扉の開く音が背後で聞こえたが、どうせあの男だろうと思ったので振り返りはしなかった。
「そんなにこの庭が気に入った?」
カチャカチャと甲高い、食器同士の触れる音。
気に入ったのかと揶揄するように言われた庭から視線を外しダリヤの男へと振り返れば、ダリヤの男手ずからテーブルに飲み物を置いていた。
使用人ではないと言う本人の主張に何となく足を踏み入れてしまったが、本当はダリヤの男は館の人間の留守に住人だと偽っている使用人ではないのだろうか。 或いは使用人は外出しているのだろうか。或いは使用人の一人もいないのか。
ダリヤの男以外の人間の気配のない屋敷。
恐らくは問い質しても真実は知れない。
再度座るようにと薦められる、その椅子に張ってあるびろうどの布の色も赤だった。
ダリヤの男が組んだ足を投げ出すように座っているのも勧められたのと同じ赤い椅子。
そして、その椅子の足元には何かが飛び散った跡のような不気味な染み。
赤い絨毯の色にも馴染む事のない。

novel−パラレル