指先
街の人間達が見守っている間は悟空にその体重を預けながらも三蔵は自分の脚で立っていた。
悟空の肩に掴まるように乗せた指先。
そしてだらりと垂らした反対側の腕からは絶える事無く滴り落ちる赤い色が地面にぱたぱたと染みを残して行く。
無言で自分達を包囲しながらも動勢を窺っていた街人達の囲みを抜けて八戒はジープを呼び、
ジープはピィと啼いて応え威嚇するように中空で尾を一降りしてから地面に降り立ち四輪の車へと変化した。助手席に収まった三蔵の指先からは相も変わらず血が流れ続けジープの床を汚していた。
急ぎ街を走り抜け、小さな川の畔でジープを停車させ八戒は三蔵に傷を診せるように告げる。 白竜の姿に戻ったジープが白い鱗を血で汚しながら宙を浮遊しているのを重い瞼を持ち上げて確認した三蔵が微かに眉を顰める。
多量の出血の所為でお世辞にも元気一杯とは言い難い三蔵が八戒に言われる侭大人しく地面に座り込む。 血で汚れた金髪を掻き上げて八戒が怪我を確認し悟浄が揶揄うように「あーあ、怪我したトコハゲちまうかもな」 と言うのに三蔵はじろりと睨み上げるだけで常のようにキレの良い反論をする事もなく、 八戒が「気」を当てている間に「眠い」と一言端的に告げるとその侭薄い瞼を閉じた。
自分達がおかしな薬物で眠っている間も三蔵は眠らず一人で敵と対峙していたのだと悟った八戒は困ったように小さく笑みを浮かべた。 その笑みが崩れたのは爪先にまで血がこびり付いている三蔵の指先を拭おうと取り上げた時だ。 血が足りなくなっているらしく冷え切った三蔵の指先。
きゅ、と八戒がその手を握り締めても三蔵は目を覚ます事なく眠り続けている。
あのエセ道士のたくらみに依り三蔵と引き離され、 三蔵は贄として妖怪達に差し出されていると聞いた時以来何度も反芻した怒りが再び込み上げる。 街の人間達に向かい三蔵は「退け」と告げ、 三蔵の気迫に飲まれたように殺気立っていた街の民が道を開く中退路を確保した時の事を八戒は思い出す。
あの時三蔵が止めなければ自分達は街の人間達を殺していた。 悟空と悟浄はどうだか分からないが自分はその場に居合わせた人間どもを皆殺しにしても構わないつもりでいた。 道を切り開く為の必要最低限だけの実力行使ではなく自らの怒りを見せ付ける為の、見せしめの殺人を犯す事をも厭わないつもりでいた。 自らの弱さを言い訳として自らの行為を正当化する人間を見たのは初めての事ではない。 そして、そんな弱き人間達を皆殺しにする事に躊躇いを覚えない自分を垣間見る事も初めてではなかった。
寧ろ分からないのは三蔵だと八戒は思う。
「正義の味方ヅラして」
自分達の行動をそんな風に妖怪に揶揄される事は一度ならずあったが、その度三蔵は面倒くさそうな表情を浮かべた。 狂った妖怪達に襲われた人間達を救う、それはこの旅の間に幾度も繰り返して来た事だった。 自分達が正義の味方を標榜していなくともそう思われても仕方ないと思える程度には暴走し凶暴化した妖怪達を殺めて来た、 それは事実だった。ならば護られて来た筈の人間達が自分達に刃を向ける事を理不尽だと思うのではないか。
眠り続ける三蔵を見下ろしながら八戒はそう思う。
それなのに三蔵は、妖怪達の魔手から逃れる為の贄として自らの身を差し出されたのだと知りながらその事に対しては、 味方である筈の自分を殺してでも生き延びたいのだと思われた事に対しては露程の怒りも抱いていないように見えた。
ただ、自らの行く手を阻む事だけは赦さないと、それだけがあの時三蔵の示した意思表示だった。 人間であるとか妖怪であるとか、敵であるとか味方であるとか、そういった人がましい拘りを抱え込む事のない高潔な人。
全身を血で汚した三蔵が街の人間達に憎しみの瞳を向ける事もせずひたすら前方へと向かっているのを知った時、 驚いたのは自分だけであったと八戒はひんやりとした三蔵の指先を握り締めながら思い出す。 悟空はともかく悟浄までもが、殺気だった背中を見せて街人を脅しつけながらも彼らへの憎悪を瞬時に引っ込めた。 自分を、自分達を陥れた人間達を惨殺する事を三蔵は望んでいないと知ったからだ。
殺してしまっても良かったのに、八戒は密かに思う。
あのエセ道士も、街人達も。
この人をこんな風に傷付けた人間達を赦す必要などなかったのだと。
三蔵を見下ろしながら八戒は一人、思う。