in the Dark
初めて髪に、指に、唇に触れる事を赦された時の事を覚えている。
痩身のクセにそこだけは肉厚な唇は柔らかく、指先は冷たいのに唇だけは温かだった。
この想いは一生、本人は勿論他の誰にだって告げる事なく一人で墓まで抱えて行くつもりだったのに、
どういう訳だか三蔵は俺を受け入れた。
日々命の遣り取りを続けるしんどい旅の中、ヤツにとって大切なのは師匠だけだと、
師匠の形見の経文だけなのだと思っていたのに三蔵はその心に俺の居場所を作ってくれた。
今でも時々全てが夢だったんじゃないかと思う。
目を覚ましたら俺は下町で薄汚い仕事に手を染めていて、赤い髪も頬の傷も何より自分自身の事を嫌いな町のクズの侭で、
誰の事も愛してなくて誰にも必要とされていないんじゃないかと。
日の高い時間は家の中でコソコソと隠れて暮らし健全な人間が家に帰る時間になってから人目を憚るように表に出、
起きている間はひたすらアルコールで脳味噌をふやけさせその時だけが楽しければ良いとノリだけの意味のない会話を交わし日毎夜毎の快楽だけを貪るドブネズミのような俺。
市井の民の中からたった一人消えたって誰も悲しまない。誰も気付かない。生きている意味すら知らない、そんなヤツ。
・・・幾らだっている。それが俺じゃないと、誰に言えるだろう。
「・・・夢じゃねえんだよな?」
既に僅かにしか温もりの残っていない自分の隣、狭い寝台の上を腕で探ってみる。
腕の中の温もりに寒さを忘れて眠った記憶がもう信じられない。
互いの部屋にそれぞれシングルベッドが置いてあると言う他人行儀な生活の中、
一つのベッドで眠るのは稀と言う程ではなかったが毎晩と言う訳ではなかった。
「シーツ2枚洗うのも面倒だしさ、いっそダブルベッドにしねえ?」
そう訊ねてみた事もあるのだが、部屋が狭くなると三蔵には断られた。
俺の部屋と三蔵の部屋は同じ広さで、片方だけにダブルベッドを入れるのは確かに不公平に思えたし、
片方を寝室にしてしまうと「私室」と言うものがなくなり全ての部屋が共有のものとなる、三蔵はそれもイヤだったらしいが。
この家で一番広いのは居間だが流石に、玄関を入ってすぐのそんな処を寝室にする訳にもいかないし、
つうか俺は別に構わないのだが居間にダブルベッドを置く案は三蔵に却下された。
今まで客間を兼ねていたその部屋が使えなくなればその理由を八戒と悟空に悟られるのがイヤだと、そんな処だろう。
他人の目なんかどうだって良いじゃねえかと思う。
別々の部屋で眠って眼を覚まして、全てが夢だったんじゃないかと思う一人きりの朝の空虚さに比べれば。
それとも本当にこれはただの長い長い、幸せな夢なのだろうか。
夢ではないのだと信じる儀式の為に、好きでもない甘ったるいケーキを買う。酒を買う。美味くもないチキンを買う。
去年も、一昨年も、その前も言葉にした。
また来年も一緒に過ごせるようにと。
俺はきっと今夜も同じ言葉を口にする。
どうか全てが夢ではありませんように。