それはけして間違いではなく
初めて人間の肉を喰んだ時の事を覚えている。
その頃俺は人間の女と付き合っていた。香水も付ける事さえなかったその女からは酷く蠱惑的な甘い香りがした。 ああ、いい匂いだと首筋に鼻を埋める。表皮からでさえこんな甘い匂いがするのだから、 この皮膚を突き破って生身の肉を剥き出しにしたらもっと良い匂いがするに違いないとふと思い付き実行に移した。 鎖骨に歯を立てれば薄い皮膚が破れ途端、芳香が女の身体から匂い出す。 否、匂いの元は葡萄酒のような赤い液体だった。 ああ、こいつは身体の中にこんな美味いものを隠していやがった、 だからこんなに良い匂いがするのだと夢中になって張り詰めた健康的な膚に溢れる血を舐め取っていると 「ねえ、止めてよ、止めてよ・・・」としつこく女が言うものだから煩くなって細い頸を捻った。 呆気なく女は抵抗もしない煩く泣き喚いたりしないただの肉の塊になったので女の肉を犬歯で抉り出して噛み千切った。
腹(バラ)、ヒレ、手羽、レバー、モツ、ハツ、タン。
何処もかしこもが美味かった。その頃には女の事は俺の恋人だった人間とは思えなくなっていた。
こんな美味い人間を飼っていたとは俺も目が高い。
そう、最早俺にとってそいつはただの人畜だった。



そうして人間は美味いものなんだと生まれて初めて知った。
誰も教えてくれはしなかった。学校でも教わった事がなかった。でもグルメ知識なんてそんなものだろう。
人間が希少価値のある生き物であれば、閉じ込めて餌を与えて肥え太らせて繁殖させて、ブローカーになっていたかも知れない。 そんな事を考えてしまうのは自分の力で会社を興した兄の影響も少なからずあるのだろう。 然し幸いにして、 とでも言うか人間は俺が手を掛けて増やす間でもなく元より大量に生息していたので一から育てると言う面倒くさい手順は抜きで俺は何時でも気に入った人畜を喰らう事が出来た。
個体の絶対数では人間に劣る俺達妖怪だが、だからと言って俺達の力を畏れる人間達による狩りなど懼れるに足りなかった。 牙も持たない羊の群を、ただ数が多いからと言うだけで怯える狼が何処にいる。
そんな訳で俺は人間に使われる事を止め、住んでいた田舎町を出て、 余所者が移り住んで来ても小煩く近所の人間が咎めないような、人間の一人や二人消えても問題のないような大きな街に居を移した。
狩るのは俺の方だ。狩りをするには身を潜めなくてはならない。 獲物が安心しきってふらふらと群を彷徨い出るのを虎視眈々と狙う。待ち侘びる。 そうして捕らえた獲物を食み、獲物が男であればその衣類も頂き、運が良ければ獲物の持ち合わせている小金も手に入れる。 肉ばかり喰ってちゃ体に悪いからな、そうやって得た金で時折パンや野菜を買って喰う。 或いは豚や魚を買う事もある。
人肉の味を覚えたとは言ってもそればかり喰うのではない、勿論。 人間だって鳥だの豚だの牛だの、その日の気分によって色んなものが喰いたくなるのと一緒だ。 食肉の選択肢が一つ増えただけでそれ以上の意味なんてない。 カレーが食えなかったヤツがある日突然カレーを食えるようになれば買い物の時「今日はカレーにしようかな」と考える、 カレーを食えなかった時には考えもつかなかった行動が自分の行動の一つに加わる、 そんな事に疑問を抱くヤツなんていないだろう?



そして俺は狩りに出る。
年寄りの肉は筋ばっていて不味いので獲物は若ければ若い程良い。 羊肉だってラムとマトン、牛だったらビーフとビールと、言葉が違うのだ。 成人と子供とは同じ生き物であっても別のものだと考えて良いだろう。 食いでのない事を補うあの肉の柔らかさは、矢張り成人とは分けて考えなくてはいけない。
柔らかいと言えば成人だったら男よりは女の方が良い。 そして観賞用であれば見目麗しい痩せぎすの体でも構わないが、食用であれば丸々としている方が美味いのは勿論の事だ。 マグロだってたっぷりと脂の乗ったトロの部分が好まれる。牛肉だって霜降りの方が高い。 ふっくらと脂肪による丸みを帯びた女はスーパーで買うのであれば俺には手の届かないグラム数千円の上等の肉だ。





ある日の夕暮れだった。 風に乗って美味そうな匂いが漂って来た。香水などの人工物の匂いも混じっていない。上質の、まろやかな肉の匂いだ。 そのかぐわしい匂いは今迄俺が味わったどの肉の匂いとも違っていた。
匂いの出所を辿り俺は鼻を鳴らしながら街中を歩く。
あの化粧ッ気のないこちらに背中を向けている買い物中の女だろうか、それとも家の前で遊んでいる子供だろうか。あの柔らかそうな肉。
良いねえ、と思いながら風下に立ってみると、だがそのいずれもが目指すモノではない事が分かった。
ああ、一体何処に俺の求めるモノが居るのだ。
立ち止まりその場で辺りを一通り眺め遣る。
と、少し離れた所で車が停車した。珍しい形の、と言うか車自体が希少な物であるのだが、物珍しさにふと視線を止める。 乗っているのは別段金持ちそうな身なりをしている訳でもない、若い男が4人。匂いの元はそこだった。 その荷の中に上等の肉でも積み込んでいるのかも知れない。 誰の目にも付かないよう、盗みを働くのは厄介だった、人通りの少ない夜の街外れで女子供を攫って殺すのに比べたら。 ちっと舌打ちをし、他人の持ち物にへこへこ誘い出されるなんてバカを見た、そう思いながらその4人を未練がましく見ている時に気付いた。 4人のうち、3人は俺と同じ妖怪だった。
然し、残りの一人は人間だ。
そして、匂いの元はヤツらの荷物なんかではなく、そのただ一人の人間だと。
どうして、あんな細っこくて食いでのなさそうな男なんかが?
それに、何で妖怪と一緒なんだ。
ああ、アレだ。
餌によって肉の味が変わるとか言うアレ。きっとあの人間は肉質の良くなる物を喰っているのだ、 いや、喰わされているのかも知れない、連れの妖怪達に。あの妖怪達の餌となるべく連れ回されているのだろう。 制御装置でその姿を変えた妖怪どもに、それと気付かされずに。
脅されて無理に同行させられているのではない事は、3人の妖怪が人間の男を残して先に車を降りた事で分かった。
車に一人残された男は、縛られたりなんだりで体の自由を奪われている訳でもなさそうなのに逃げ出す様子はない。
近付いて、適当な事を言って連れ出してしまおうか?
そう思案した時だった。


「玄奘三蔵、死ねえええっ!」
声の裏返った雄叫びと共に物陰からばらばらと数人の妖怪が姿を表した。 制御装置も嵌めていない、妖怪本来の姿形を顕わにしたヤツらだ。
なんだなんだ、あの男に目を付けてるヤツは他にもいるのか。
そんなに有名な肉なのか。
そう思い貧相なその人間を改めて見直してみる。
健康そうだ。膚ツヤも良い。多分肥え太らせなくても美味い、そんな品種なのだろう。
ドサクサに紛れたら腕の一本も拾えるだろうか。
薄汚れた服を着た妖怪達の背中に遮られてあの肉の姿が半ば隠れる。
そんなに美味いのだったらせめて一口、いや、血の一滴だけでも。
肉の良く見える位置に移動しようとそれぞれの手に武器を持つその妖怪達の背後へと伸び上がりながらそそくさと近付いた。

ガウン、ガウン、ガウン!

癇癪玉が破裂した音とも違う、花火とも違う、銅鑼とも大太鼓とも違う、 だが凄まじい轟音が至近距離から聞こえて来るのに思わずびくりと身を竦ませた後で辺りを見回す。 音の聞こえて来た方向には相変わらず妖怪が突っ立っていて様子が分からない。
と、その、視界を塞いでいた妖怪の背中がぐらりと揺れたかと思うとどさりと音を立てて地に崩れる。
そして俺は音の正体を知った。
肉が、こちらを向いていた。
その手には鈍く光る銃が。


「ま、待て、俺はちが」

別バージョンはこちら。三蔵一行は出てきません。

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