night before the dawn 2
始まった時と同じ位唐突に重くのし掛かっていたプレッシャーが消えた。俺はまだ地面に座り込んだ侭で、突っ張るように地に着いた手にも何の感覚も戻っていなかったが。 尻餅をついた格好でも構わない。カサコソと、 それこそゴキブリのように這いずってでも大急ぎでその場から逃げ出してしまいたいと思ったが全身が痺れているかのように身動きが出来なかった。 否、下半身は痺れすら感じる事もなく、未だ何の感覚も戻っていなかった。
何か分からねえけど助かった、と安堵する気持ちすら起こらなかった。
ちょっと路地裏を覗いただけでいきなりこんなワケの分からない目に遭うだなんて、誰が普通考えるだろうか。
そうだ、そもそも俺は好きこのんでこんなトコロに来た訳ではなくて、三蔵を。
じゃり、と土を踏む音に気付き顔を上げる。 その動作も自分で思っていたような敏捷さはなくカラクリ人形のようにぎこちのないものではあったが。
見上げた視線の先、汚れ一つない純白の法衣を纏った三蔵が俺を見下ろしていた。
光を受けた時だけ水晶のような色で輝く濃い紫色の瞳が、少し驚いたように見開かれる。
その、滅多にお目にかかる事のない珍しい表情が、何故俺が此処に居るか、ではなく、 何故俺が未だ生きているか、その事を訝しんでいるのだと、どうしてだか分からないが俺は理解した。
「・・・てめえ、こんな処で何してやがる」
「何処でナニしてようが俺の勝手だろうが」
不機嫌そうな問い掛けに間髪入れず言い返す。 この減らず口の所為で今まで何度も散々なメに遭って来たが自分が劣勢な時こそ余計な口が出てしまう癖は治らない。
「でけえナリでみっともねえ姿晒してんじゃねえよ。とっとと起きやがれ」
言葉だけは乱暴だが、そう言いながら三蔵がこちらに手を差し伸べて来る。
何処からか零れて来る街灯を浴びて薄青く光る形の良い手の平。その、虫も殺せないような華奢な手を見た瞬間、 認めたくないと、信じたくないと思っていただけで、目の前に乱雑に放り出した侭でいたピースがカチリと音を立てて嵌る。
三蔵の背中越しに見える薄暗い路地には、先程まであれだけ詰めていた筈の妖怪の姿は一体も見当たらなかった。 勿論、鷭里二号の姿も。10人以上はいたガラの悪い妖怪達が逃げ出す気配を、幾ら俺が不調だからと言っても見逃す事はあり得ない。
つい先程浴びた清浄な光は三蔵の産み出したものだと。
闇の存在が生存する事を赦してはおけないのだと言わんばかりの圧倒的な浄化の力は、三蔵の身から溢れ出たものだと理解する。
べし、と最高僧様の手を自分が払い退けていたのだと遅れて理解する。
「あ・・・」
自分のしてしまった事に思わず怯んだのは俺の方だった。 手を払い退けられた三蔵の方は、いつも通りの無表情で特に気を悪くしたようには見えなかったが無言で背を向け一人だけ歩き出す。
「・・・っ待て!助けてけっつうの!」
「・・・・・・・・・ああ?」
たっぷり一呼吸は置いた後、今度こそ地の底から這い上がって来るような超低音で、不機嫌を顕わにした声音で返答される。 ビキ、と音が聞こえそうな程クッキリと眉間に刻まれた皺。そして「こんなアホに付き合いきれるか」 と頬に書いてあるのが見える侮蔑の表情。
助けろと言ったのと同じ口で、思わず俺は怒鳴り付けていた。
「大体なあ、てめえが何処の誰とも知らねえヤツにのこのこついてくから悪いんじゃねえか!」
「ついて来いなんて頼んじゃいねえだろうが!」
最高僧様は、流石と言うか即座に怒鳴り返した。
「世間知らずのあんたが、こんな酒場で声掛けられて野郎にホイホイついてったら心配するに決まってんじゃねえか!」
「だから、頼んじゃねえっつってんだろうが!大体てめえ、何考えてやがる!」
スパーン!
身動き出来ない俺に容赦なく振り下ろされるハリセン。待て、てめえ今ソレどっから出した!?
「ぎゃー止めろー!暴力ハンターイ!」
「このクソ河童があああ!!」
スパーン、スパーンと酒場の近所で繰り返される威勢の良い音を不審に思ったのか、 それとも俺達の怒鳴りあいを聞き付けてだか、酒場の扉が開き酔客と馴染みの女の子達が顔を出す。
「お、なんだなんだ、○しもとかあ?」
「ああ、新人の練習だろ、アレだ、人前で演じて度胸付けるっつうやつ」
「おーい、店ん中来て演ってくれよー」
酔っぱらったおっさん達は誰一人として俺を暴力坊主の魔手から助けようとしてはくれなかったが、 結果として人が集まって来た事で暴力坊主のハリセン乱打は止まった。
「悟浄?ちょっと、何やってんのよ」
馴染みの女の子が声を掛けて走り寄って来る。
「いや、ちょっと色々あって」
適当に答えると、何時の間にかハリセンを仕舞った(って、何処にだ?)三蔵は他人事のような顔をして背中を向けて立ち去ろうとしていた。
「待・・・!」
「なあに、転職でもするの?」
三蔵を呼び止めようとすると、店の女の子達が座り込んだ侭の俺に、 立ち上がれないらしいと見当を付けて肩を貸してくれながら話し掛ける。
「えー、やだぁ、ウチの店に来なくなっちゃうのお?」
「そんな訳ねえって」
いい加減よ○もとから離れてくれねえかな。
「悪ぃ、ちょっと休ませて貰ってイイ?」
「どうしたの?気分悪い?」
既に人混みの中に最高僧様の姿はない。その冷たい最高僧様と違って、こういった店の女の子は案外気が良くて優しい。 その優しさに縋らせて貰う事にする。
「ははっ、ちっと酔ったみてえ」
「うそお、珍しいー」
華奢な身体にでかい図体を預けて脚を引きずるようにして店内を横切る姿を、見知った幾人かがからかう。
「両手に花じゃん、悟浄」
「羨ましい?」
「いーなー、俺も酔って来ちゃった」
「きゃー、やだあー」
人の具合の悪いのを冗談か何かだと思っているのか、 ちゃっかり女の子達に絡むネタにする薄情な飲み仲間どもの騒ぎにそれ以上関わる事無く女の子達に支えられた侭ノロノロと歩き続ける。 開閉の度に蝶番が軋む薄い扉を開けて、休憩用の部屋に連れられて、簡素な寝台に寝かしつけられる。
「お水持って来るから」
そう言い置いて甘い香水の香りと共に女の子達が部屋から消える。
先程まで膚に触れていた温かい他人の体温がなくなった事で、途端、自分の存在を確認出来なくなるような錯覚に陥る。
本当は、俺は先程死んでしまっていて、此の世に存在していないのではないか。
力の入らない手の平を数回、握って閉じて、握って閉じて、と言う事を繰り返す。
「悟浄?起きてる?」
先程俺に肩を貸してくれた女の子の一人、小玉(シャオユイ)が水の入ったコップを手に部屋に戻って来る。
「大丈夫?おかしなクスリに手を出したとかじゃないの?」
俺の背中に手を差し入れて、上体を起こすのを手伝ってくれながら顔を覗き込んで訊ねられる。
「クスリじゃねえよ、だいじょぶ」
水道水ではなくわざわざミネラルウォーターを持って来てくれたらしい。コップの水を一息に飲み干してから答える。
「ママが、具合良くなるまで休んでて良いって」
「そっか・・・ありがとな」
「じゃ、また後で様子見に来るから」
「いや、少し休めば大丈夫だから」
「いっから。無理しないでね」
そう言って小玉はひらと手を振って扉の向こうに消えた。
小玉の口からはまるで恋人にでもかけるみたいな優しい言葉がぽんぽん出て来るが、 別に俺達は恋人同士でもないし、俺が常連だから親切にしてくれている訳でもない。小玉は気の良い女なのだ。 そんなちょっとした優しさが今の俺には無性に身に染みた。 それは決して最高僧様に置き去りにされたからではなく、自分の存在が文字通り希薄になると言う稀で、 と言うか普通経験した事ねえだろ、そんな事、ああ、つまり、 自分の存在が不安定になると言う得難い経験のお陰で俺も情緒不安定になっているのだ。
「はあ・・・」
寝台の上で大きく溜息を吐き、横になる。具合が悪かったのは本当の事で、何時しか俺は眠ってしまっていたらしかった。
「悟浄?開けますよ?」
唐突に聞こえて来た耳慣れた優しい声に、寝転がった侭片目を開く。
「んあ?」
「大丈夫ですか?気分は悪くないですか?」
矢次早に問い掛けられ今度は両目を開いて上体を起こす。
「八戒・・・?何で・・・」
一緒に飲みに出たならばともかく、どんなに帰りが遅い時でも飲みに出た俺を八戒が追い掛けて来るような事は今までなかった。
「三蔵が、あなたがこの店にいるって教えてくれて」
へえ、ほお、ふーん。三蔵様が。
「・・・って何で三蔵が!」
俺を置いてスタコラ帰っちまったのはてめえじゃねえか!
「何でじゃありませんよ。ワケありらしいのに詳しい事はちっとも教えてくれないものだから、ついに殺っちゃったのかと思いました」
無事で良かったです、あははと八戒はさらっと恐ろしい事を言う。
「無事じゃねえんだよ!」
少し休んだ所為か、どうやら身体の怠さは抜けきったらしくこうして八戒ともマトモに会話が出来る。 起き上がった時は無意識だったが眠る前の異様な脱力感も収まっている。 良かった良かった、と思いはするがやはりちっとも良くなんかない。
「どうしたんですか?・・・矢張り三蔵が何か?」
途端、心配そうな表情で八戒が顔を覗き込んで来る。 そう言えば、迎えに来てくれた割に八戒が未だ「じゃあ帰りましょうか」とは言い出さないでいる事に気付いた。
「ああ、いや、まあなんつうか・・・。そういや生臭坊主はどうしたよ」
「三蔵だったら帰りましたよ。こんな時間ですから泊まって行くように言ったんですけど」
「帰っただあ!?」
アイツみたいなのが夜遅くに一人で出歩いてたら危ねえだろうが、いや、危なくはないか。 何しろアイツはこんなとんでもないワザを隠し持っている位なのだから。っつうか何心配してやってんだよ、俺! そもそもあんなヘラヘラした野郎にのこのこ附いて行っちまうから心配して様子を見に行ってやったのに、 だから何で心配とか言ってんだよ俺は!!
「三蔵に何か用事でもありましたか?」
「あ?いや、別に・・・」
人をこんなメに遭わせておいて、八戒を呼んで来た事で罪滅ぼしが出来たとでも思ったんだろうか、 てめえだけとっとと帰っちまうなんてありえねえだろ、フツー。
「クソ・・・っ」
苛々と煙草を取り出せば、即座に目の前に灰皿が差し出される。
「でも、思ったより元気そうじゃないですか」
「ああ?」
ポケットを探りジッポを取り出して煙草に火を点ける。
「三蔵が、あなたが暫く動けないかも知れないって」
オイオイ。そう思ったんならますます一人だけ帰るなよ。
「・・・ったく、わかんねーヤツ・・・」
煙と共に吐き出せば、八戒が「どうします?泊まって行きますか?」と訊ねる。
「ああ、いや、いーわ。折角お迎えに来てくれた事だし、帰るわ」
そう答え、銜え煙草の侭立ち上がる。足も、もう大丈夫そうだ。地面に着けば踵からトン、と響く音を感じる。
「百面相なんかしちゃって、分からないのはあなたの方ですよ」
くるりと背中を向けながら先に立って歩き出した八戒の台詞は、俺の耳には届かなかった。
「え?」
「いいえ、何でもありません」
聞き返してみると、肩越しに頚だけ振り返って綺麗な笑顔を見せて、八戒は惚けた。
その笑顔の意味を悟るのは、数年後の事となる。