新年雪
達筆な字で書かれた玄奘三蔵法師直々の手による対聯が左右の柱に貼ってある扉を開けて家を出る。
温まった家の中から出て来た身に外気が痛い程に冷たい。「わざわざ買って来る程のもんでもねえだろ」
面倒くさそうに言いながらそれでも紅色の二枚の紙を暫し見つめた後銜え煙草でさらさらと書き付けてくれた対聯だが、 振り返って改めて文字を眺める事はしない。 三蔵が書いてくれた時からしげしげと何度も眺め字句はとっくに頭の中に入っていた。
寒さに僅かに背中を丸めてから宵闇の中を歩き出す。
二人で暮らすようになって初めての春節だが三蔵は家にはいない。
家族全員が揃って迎えるべき旧正月だが、 寺院関係者である三蔵は年明け早々初詣にやって来る参拝者達の為に年が変わる前から寺に詰めている。
三蔵は新年を寺で迎えるのだ。
ハゲ頭の坊主共に囲まれて。
本当だったら俺が一緒に過ごす筈だった年明けの瞬間。
一緒に火鍋つついて餃子食べて爆竹鳴らしてと言うその時間を俺と過ごせない事など何とも思ってなさそうな素っ気なさで「仕事だ」 と告げられた時、何とか落胆の表情を浮かべる事もなくあっさり「あっ、そお」と言い返した。
・・・ちえ。
そりゃ分かってるんだよ。
三蔵は坊主なんだし。
長安の数ある仏教寺院の中でも最大規模を誇る慶雲院じゃ、 今日は三蔵のみならず寺の関係者各位が俺等一般人が家でのんびり酒飲んで美味いもの喰ってる時にもくつろぐ事なく忙しく立ち働いてるのだって分かってんだよ。
店屋だって今日と言う日は従業員達が家族揃って過ごす為に閉まっていて、 いつもだったら今頃は客が溢れている筈の飯屋の扉も固く閉ざされている。 人っ子1人いない商店街には閉ざされた扉の向こうの窓から零れる灯りと賑やかな家族の語らいの声。
一緒に過ごす「家族」がいなければ繰り出す先も無い侭一人寂しく家の中で丸まっているしかない。 転がり込む先(八戒の所だ)があって良かったと吹き付ける風に肩を竦めながら思う。 八戒の方から声をかけて来なかったらこんな日に店を開けてる奇特な飲み屋でも発掘しなきゃいけないトコロだった。 前に住んでた街だったらこんな日にも帰る家もないオネエさん達が寄り集まって店を開けてくれてる酒場も幾つか知っていたが、 長安に越して来てからは前程は夜遊びに出なくなったのでまだ夜の界隈には明るくないのだこのオレとした事が。
三蔵の小言に咎められる事もなく夜の街に繰り出せるこんな日は本当は喜び勇んで八戒の誘いも断るべきだ。 一人きりの身を楽しんでいそいそと出掛けるべきシチュエーションだと言うのは分かってんだけど。
・・・でもつまんねえの。
八戒がいて、悟空がいて。
でもそれだけじゃ物足りねえんだよ。一緒にいてえんだよクソ坊主。
はあ、と盛大に溜息を吐き出せば白い息の先で鳥の羽毛のようなものが視界を掠めた。
「あ・・・」
星のない夜空を見上げれば頬に降りかかる冷たい小さなもの。
雪だった。
開いた掌の上でふわりと溶けて消滅する冷たく濡れた感触。
三蔵、風邪ひかねえと良いな。
濡れた掌に息を吹きかけながら、立ち止まり今この時一緒に居たい人の事を想う。