ナンバリング
今日の三蔵の新聞は日刊競馬。先週はダービーニュースだった。その前はエイト。
愛用の競馬新聞ケイシュウが先日廃刊になってから三蔵は未だ次の愛読紙を決めず各紙を転々としている。
春競馬もこれから本番と言うこの時期に愛読紙が廃刊とは間が悪い。「今日は日刊か。後で見せてよ柏木集保の狙い目」
「ああ」
と言っても今日はどの新聞を見ても本命は同じだろう。三冠確実と言われている栗毛の良血馬のクラシック第一戦。
「そう言えばプロトンてどんな意味だっけ?」
「陽子」
三蔵が即答する。 プロトンと言うのは今日の一番人気馬タキオンの弟の名前だがタキオンだのプロトンだの言っても何も小難しい話をしている訳では無い。
「コレ見てみ」
「何だ」
三蔵に先程売店で買った雑誌のページを開いて見せる。
「エアグルーヴの初仔の最新写真v うわ、焦がすなって」
「焦がさねえよ!・・・良い馬だな」
三蔵は目を細めてじっと写真を眺めサンデーと言うよりトニービンぽい体型だけどやっぱりサンデーも出てるな、と呟いた。
「一億はするな」
「2億3000万」
安値で売買される牝馬が一億円以上の値段で売れるだろうと踏んで貰ったのは嬉しかったが「彼女」 には過去の前例なんか関係無くとんでもない価格が付いたのだと少し自慢するように言った。
「2億3000万か」
破格の値段に驚いたらしく三蔵は俺の言葉を鸚鵡返しにした。
「走るかな」
「走るんじゃねえか。バランス良いし」
写真をもう一度見ようと覗き込むようにすると三蔵はページを開いた侭雑誌をこちらに戻して来た。
付き合い自体は結構長いし一緒に飲みに行く程度には親しくなったが三蔵は近付くと一定以上の距離を置くように退く。 30分間隔の忙しいレースの合間にいちいちそんな事気にしている暇は無いのでいつも「あ」と思いながらその感覚が何なのか考える時間も無いうちにその違和感をやり過ごしているのだが (悩んでいる間に馬券の投票時間が過ぎてしまったら相当バカだし) ほぼ毎週会う相手にそれをされると流石に気にもなる。
「そうだよな」
所詮ここで素人の俺達が誉めあった処で意味は無いのだがそれでも話題にせずにはいられないのが競馬ファンの悲しい習性だ。
生まれてからまだ一年も経っていない、デビューすらしていないこの牝馬が既にどれだけの人間の期待を負っているのかは知らない。 生まれてたった3ケ月で母親と離され番号を振られセリに登場し牝馬史上最高価格で落札されたのは去年の夏の事。
未だ「エアグルーヴの00」としか呼ばれない、名前もまだ無い子馬が負っているのは生産牧場の期待と馬主の期待と、俺達母馬のファンの期待。 そしてこれからは母馬の活躍を知らないヤツらが父とも母とも全く関係なくエアグルーヴの00自身のファンになった時彼女にかける期待。
これから発走になる皐月賞の一番人気「光より速い仮想粒子」の名を持つ馬も祖母がオークス馬、母が桜花賞馬、全兄はダービー馬と言う華々しい一族でエアグルーヴの00以上に色々なものを背負っている。
人間で言うとまだ16歳のコドモ達が何万人もの視線に晒され絶叫に近い歓声に迎えられそれでも臆せず走らなくてはいけない。
走った先に何があるのか。勝って栄光を手にするか。一生に一度のチャンスを惨敗して二度と光の当たる処を走る事無く終わるか。 本当だったら今日このレースに出走していてもおかしくなかったある馬は、 去年の冬2歳馬戦線で初にして唯一のGIレース中に骨折し足から血を流しながらも尚走る事を止めずレース後予後不良となった。
それと比べてこんな処で煙草をふかしながらのんびり新聞を捲っている俺達人間のなんと呑気な事か。
「お馬さんも大変だよねえ」
「そうだな」
ぽつりと口にしてみると三蔵は何がとは聞き返さずに煙を吐き出しながら同意した。
ちらと見ると差し込む陽差しに三蔵の長い金色の睫毛が透けるように輝いていた。 それがとても綺麗で、もっと近くで見てみたいと思った。覗き込めばきっと三蔵は逃げるからそんな事はしないが。
二番人気の馬がスタート直後に躓いて出遅れるというアクシデントこそあったものの、 レースは予想通り、予定通りと言った感じで一番人気の馬の勝利で終わった。
「アグネスタキオンまず一冠!」
アナウンサーまでもが彼が確実に一冠以上獲る事を疑わず叫んだ。
「圧勝するかと思ったら案外着差が無かったな」
「無理に追わなかったんでしょ。次が控えてるし」
「だな」
なんと言っても次はダービーだ。
「三冠イケちゃうんじゃないの?」
「かもな」
何時の間にか習慣のようになったビールを飲みながらのレース回顧。 新聞を読んでいる時は眉間に皺を寄せるようにして眼を細めている三蔵もレースが終わってしまえば顰め面をする事は無い。 皮肉気に口元を歪め、或いは滅多に無いが機嫌良さげに口の端を少しだけ上げてレースが終わってもすぐには帰らずこうして話をする。 馬の事騎手の事、極稀に自分達の事。
三蔵は滅多に自分の話をしないし自分からは馬以外の話をする事も無いので俺が三蔵に関して知っているのは総て俺から水を向けて聞き出した事ばかりだ。
競馬場に通っているのは競馬が好きなだけで無く、毎週こいつに会えるのが楽しみでもあるからだと。 俺は自覚しているが・・・三蔵はどう思っているのか。
気に入らないのを我慢して一緒にいるようなヤツでないとは思うが距離が一向に縮まらないのは何故なのか。
「もうじき天皇賞だな」
なんて口では気楽に言っているが近寄り過ぎるとまた三蔵が逃げるのでは無いかと緊張しながら距離を測っている。
人間も結構大変だ。