パステルエナメル
心地良い微睡みから目覚めてみると自分は俯せに寝ていて、
開いた口からよだれがシーツに零れ落ちていたので慌てて起き上がって口の端を手の甲で拭った。まだ何処かぼんやりした頭で足の下のいつもと違う布団の感触に自分がベッドに寝ていた事に気が付き、 象牙色の壁が視界に入ってようやくここが三蔵の部屋である事を思い出した。
ぐるりと見回してみれば昨夜寝る時は確かに頭の下にあった筈の枕は寝ているうちにとんでもない方向までずれてしまっていた。
シーツに垂らしたよだれは三蔵に見付かっていたなら「洗え!」と怒鳴られただろうが、 三蔵の姿は既に寝室には無かったのでこの侭黙っている事にする。 どうせ三蔵はマメに洗濯をしているから放っておいても近いうちにシーツも洗うだろうし。 勝手に納得して床に足を降ろした。
この家に泊まるのは初めてでは無い。夏には自分がソファで、冬には流石にソファでは寒いので 「あんまりくっつくな狭い」と三蔵は文句を言うけど子供の頃のようにお互い顔を突き合わせてベッドで一緒に眠る。 暑くも寒くもないこの時期に三蔵と一緒にベッドに入ったのは今日はもう一人客がいて、その客がソファで寝ていたからだ。
元々泊まるつもりでは無かったから着替えは持って来ていなかったけれどこの家には自分の服が何枚か置きっ放しになっている。 その中から適当に一揃い選び出してもそもそと着替えてからカーテンを開けると朝の光が部屋に入って来て壁を照らし出した。 三蔵は寝室では煙草を吸わないのでこの部屋の壁だけはヤニのこびりついていない購入当時の淡い白色の侭だ。
寺では誰も煙草を吸わなかったし、寺にいた頃の三蔵は煙草を吸わなかったので「寝煙草禁止」 と誰も三蔵に教えはしなかったのに三蔵が寝室に煙草を持ち込まないのはきっと育ての親と言う人の躾なのだろう。 優しそうな笑顔の写真しか見た事の無い銀髪のその人をぼんやり思い出す。
・・・ここでは煙草を吸わない筈だけど。
昨夜寝室に足を踏み入れた時ほんの少し煙草の残り香があるような気がした。
三蔵ともう一人、昨夜一緒にこの家に泊まった三蔵の友人、悟浄は煙草を吸う。それはもう、部屋の中が真っ白になる位延々と吸い続ける。
昨夜は「寝室で煙草吸う事もあるんだ」と思ったけれど、白々と室内を照らす光の中に立ってみると、 この寝室で煙草を吸ったのは悟浄なのだろうと、何故かそんな気がした。
悟浄は三蔵と仲が良いみたいだしこの家に泊まる事も多いんだろう。 三蔵が寝室では煙草を吸わないと知っているのか知らないのかは分からないけど、 悟浄の喫煙を三蔵が許しているのだと、そんな事もあるんだろうと思った。
顔を洗ってキッチンに行くと先に起きていた三蔵と悟浄の姿があった。
「おはよう」
声を掛けると
「オッス」
「・・・・・・・・・・・・ああ」
悟浄はともかく 『本当は口をきくのも面倒だから無視しちまいたいんだが朝の挨拶なんだから何とか口を開かなければならない』 と言う内心の葛藤が聞こえてきそうな程の間を置いてようやく呟き程度の大きさにしかならない声で三蔵が返事する。
寝起きにぼんやりしているのは昔からだったが、寺にいた頃はもう少ししゃっきとしてたのに。 きっとあれはじいちゃん(住職)がいたからなんだろう。
起きて、顔を洗って、身支度を整えて、と言う処まではそれ程おかしいことはないのにその後眼が覚めるまでが三蔵は長い。
今も眉間にくっきりと皺を刻んだ仏頂面で、 啜っているとしか思えない様子で味噌汁に口を付けているがその割に何故かずるずるという音は立てない。 あれは昔から不思議だった。
食器置き場から勝手に自分の分の茶碗を取り出して炊きたての飯をよそい、 冷蔵庫から卵と納豆を取り出してテーブルに並べる。
「悟空」
まだ眼が覚めきっていない筈の三蔵が声をかけてくる。
「何だ?」
「納豆と卵は止せ。気色悪い」
うんざりした表情で、しかしぼそぼそと三蔵が文句を言う。でもきっとこのお○め納豆は俺の為に買っておいたものだと思う。
「えー。美味いのに」
言って、ご飯の上に納豆と卵を載せ醤油をかけてぐるぐるかき混ぜるとイヤそうな顔をして三蔵は席を立ってしまった。
「旅館の朝食みてえだな」
先に食べ終わっていた悟浄は面白そうに笑った。
「あとな、海苔とネギも載せるともっと美味いんだぜっ」
文句を言う三蔵がいなくなったので好きなだけ色々な物を載せてしまおう。
「カツオブシは止めとけって」
ゲラゲラ笑いながらも悟浄は止めない。悟浄はよく笑う。朱泱を騒がしくしたみたいなカンジだ。
味噌汁のお椀に箸を突っ込むと底に沈む煮干しが具と一緒になって浮かび上がった。 インスタントのヤツではなくわざわざ煮干しで出汁を取るくせに、 出汁を取った後の煮干しを入れっ放しで具にしてしまう大ざっぱさが三蔵らしいと思う。 煮干しを口に入れると昆布巻きに巻き込んである煮干しと違いまだ歯応えが微妙にあるけど柔らかい、 ふやけたとしか言いようのない歯応えだ。
豪華納豆ご飯を食べ終わり味噌汁も飲んだ後、冷たい牛乳をコップに注いでごくごく飲み干した。
「おーし、飲んだな」
でっかくなるぞ、俺みたいに。言いながら悟浄の手が頭上から降りて来る。
でかくなってみせるさ。きっと。
悟浄の大きい手に頭をわしわし掻き混ぜられながら、そう思った。