デルタΔ
黒鹿毛の馬体に額にイチョウの葉の形にも似た大きな逆三角の星。それがその馬の目印だった。
ゲートから転がり出るように後方に倒れ込み、次の瞬間起き上がった黒い馬体の右後肢を見て隣で悟浄が息を飲んだ。
沸き起こる悲鳴。
下馬して歩き去る緑に白襷、袖赤一本輪の勝負服を身に纏った、 名手と呼ばれるベテラン騎手は悲しみを表すリアクションを一切取らなかったが遠ざかる背中が震えているように見えた。


名門シンボリ牧場の購入した外国産馬。父エーピーインディ、母ゲーリックテューン、母の父ダンチヒ。 新馬戦を2着した後は破竹の三連勝で初めての重賞挑戦がGIだったにも関わらず4連勝目をGI勝利で飾った。
その後一年以上勝ち星に恵まれず、昨年9月に久し振りに勝利を収めたのが重賞の京成杯だった。
どんな馬だったかと言われるとあまり良く覚えていないというのが正直な所だ。 馬群を内から捌いて一瞬で抜き去った脚とか、先頭に立った後は後続を寄せ付けなかったとか、 レースシーンを頭の中でリプレイしてみてもその光景にさして感嘆は覚えない。 ただ、レースセンスの良い馬だと、その事のみがとても印象に残った。



建物の中から出て外でレースを直に観戦しようと思ったのはそれがメインレースだったからだ。 中山の芝1,600mのレースは3−4コーナーの中間地点辺りからスタートする。 いつもの居場所は4コーナー付近なので外に出て少し高い所、例えば階段辺りに立てばスタート地点が見える、そう思った所為でもある。
白い上着を着たスターターがスタート台に上がり赤旗を振るとファンファーレが鳴りそれを合図に各馬がゲートに誘導されて行く。 順調に進むと思われたゲート入りだが何故かゲートに誘導されずゲートの後ろを曳き回されている馬がいる。 離れ過ぎていて肉眼では何が起きているか良く見えない為ターフビジョンに視線を転じると黒い馬体が突如ゲート後方に転がり出るように倒れ込むのが映った。 一瞬心臓麻痺でも起こしたのかと思ったが次の瞬間その黒い馬───シンボリインディは勢い良く立ち上がった。
だがその右後肢は骨があるべき所に収まっていない状態だと言う事は獣医ならずとも一目で分かった。
鞍上が下馬し馬装を外し、自らゼッケンと鞍を抱えスタート地点から一人離れて歩き出す。
周りからは早くも泣き声が聞こえてきている。そう、あれ程酷く骨折してしまったらどれ程手を尽くそうとももう助からないのだ。



何時馬運車が来たのか、脚の折れたシンボリインディが自らの脚で馬運車の荷台に向かい歩かされたのか、 或いは馬運車に運ばれる前に既に安楽死処分が取られていたのかは覚えていない。 気が付いたら馬群がゴール板付近に接近していたので一番と二番手でゴールを走り抜けた馬の番号だけぼんやり確認した。


メインレースが終われば次は最終レースで、最終レースは買ったり買わなかったりいつも悟浄と二人でビールを飲みながら見るとはなしに見る。 だが今はとても馬券を買う気分では無かった。 何も無かった振りをして酒を飲む気にもなれなかったし、今の出来事に自分がどれだけ動揺しているか晒け出すのもイヤだった。
「帰るか」
レース前から立ち続けているそこから動けないでいると、悟浄にそう言われた。
帰っても、この場から立ち去っても良いのかとホッとして同じように隣に立った侭だった悟浄の方に視線を向けると何処か強張った顔つきをしていた。 もしかすると自分も今同じような表情をしているのかも知れなかった。
確か悟浄はシンボリインディを軸にしていた筈だから馬券の払い戻しがある筈だ。 レース発走前の出走取消は馬券払い戻しの対象になる。こんな形での払い戻しは望んでいなかったにせよ。
「そうだな」
悟浄の言葉は強制では無かったが駅へ向かうべく脚を進め始めた。
「払い戻ししてかないのか」
「ああ・・・」
スタンド内に入ると悟浄の方からそう声をかけて来た。 お互い少しづつ払い戻しをするのが面倒なので一日分溜めてからまとめて払い戻しをする事が多い。
どれが当たりでどれが外れだか分からなくなっているので手持ちの馬券を次々に払い戻し機に突っ込む。 最後に精算ボタンを押すと数枚の紙幣と小銭がじゃりじゃりと取り出し口から出て来た。 10円単位の額は90円でも全部10円玉で出て来るのは何とかならないものかといつも思う。 この10円玉地獄が厭でまとめて払い戻しているのだ。

「飲みに行かねえ?」
同じように取り出し口から小銭を拾い上げながら悟浄が口を開いた。
酒を飲んで楽な気分になってしまいたくなかった。一人になりたかった。
「奢るから」
返答しないでいると尚も誘うように言って手元の札を無造作にジーンズの尻ポケットに突っ込むのを見て、理解した。 それが悟浄なりの弔いなのだと。今払い戻した金を全て使ってしまいたいのだろう。
「付き合ってやる」
溜め息を吐きながらそう答えてやると悟浄は微笑した。



競馬場から駅迄は地下通路で繋がっている。と言うと聞こえは良いが長い通路は狭いうえに天井も低く気詰まりだ。 光量の足りない暗い通路を既に見慣れたものとなった壁に貼られている過去の名馬のポスターを眺め声に出さず馬の名前を読み上げながら歩いた。 トウカイテイオー、ミホシンザン、サッカーボーイ、メジロマックイーン。 今日以上の人出のGIの日、数万人の見守る中骨折して死んでいった馬のポスターも数枚。 ちらと見るだけで記憶しているキャッチコピーを一字一句間違える事無く思い出す事が出来る。好きだった、今でも好きな、その馬。
「そっか、まだ店開いてる時間じゃねえな・・・俺んち来る?」
駅迄来た時気が付いたように悟浄が言った。今更飲み屋じゃないなら帰るとも言えなかったので「ああ」 と答え言われる侭に電車に乗ると自分の住んでいる所からそう遠くはない駅で悟浄は降りた。
駅を出て悟浄について歩き途中酒屋でビールとつまみを買い込み細い道に入るとそこは桜並木だった。 公園だったならともかくただの道路なので花見をしている者はおらず歩きながらゆっくり頚を巡らせて道路の上にアーチを作るように張り出している枝に視線を遣る。
中山の桜並木は向こう正面から3コーナーにかけての処にある。 つまり、内馬場にいる人間ならともかくレースに出走する馬はレース中にしかその桜を目にする事はない訳だが、 レースの為に集中している馬達にのんびり花見なんぞをする余裕がある筈がない。 美しく桜の咲く季節にシンボリインディは花を眺める事も無く死んでいったのだ。 漆黒の馬体に映える風に舞い散る薄桃色の花びらの乱舞を夢想する。
何処かで見た一枚の絵を思い出す。真っ青な空。桜の木の下に並ぶ一対の白駒と黒駒。


「美浦には桜ってあるのかな」
歩みを緩めてはいなかったが同じように桜を眺めていたらしい悟浄が問う。 美浦と言うのはトレセンことトレーニングセンターの事で、関東の厩舎に所属する馬はレースの無い日は美浦で日々を過ごす。
「・・・あるんじゃねえのか」
実際見に行った事がある訳では無かったが広大な美浦トレセンに桜の一本も無いとは考え難かった。
「そっか」
悟浄は立ち止まり手にしたビニル袋をごそごそと漁り缶ビールを取り出した。 一本差し出して来るのを受け取ると、もう一本取り出しプルタブを立て乾杯の仕草をするようにこちらに突き出して来た。 喉を反らして冷えたビールを口元に運び頭上の桜を見て目を細め安心したように笑みを漏らす姿を見れば自分と同じ事を考えていただろう事が伺い知れた。 悪くしたらこの桜の枝をへし折って競馬場の馬頭観音にでも供えるつもりだったのではないかと思う。


どの道来週まで桜が残っている訳ないのにバカだなこいつは。
じゃあ俺は人参でも持って行って供えてやろうかと、道端でビールを飲みながらこっそり思った。
悟浄には知らせずに。

踏切の続き。

2001.4.1ダービー卿チャレンジトロフィー

三角っぽい星のある馬の話にしようと思った時シンボリインディとエアシャカールの共に骨折して死んだ二頭しか思い浮かびませんでした。 しかもエアシャカールは三角と言うよりダイヤ。 星と言うのは額にぽちっとある白い部分。鼻梁までその白が流れると流星、どばっとした流星は大流星。
背景は馬事公苑。

鍵穴に続く。

100題