白鷺
昨日からの雨は明け方まで続き、雨に濡れた衣服はじんわりと冷たい手応えを残しその朝は出発出来なかった。前夜洗った衣類が漸く乾いたのは昼過ぎだったが街と外界との砦のように建っているこの建物を出たとしても当の街に着いた処で足止め、 その程度しか距離が稼げないだろうともっともな判断を下し館にもう一泊し明朝出発する事となった。 酒や煙草やその他細々とした物は街で買い足さなくてはならないものの水や食料は用立ててくれるそうで、 その分買い出しの手間が省けてラッキーな事この上無い。
街との距離を説明しながら「是非もう一泊していって下さい」と薦めてくる主夫妻は例によって例の如く『下僕だ』 と宣言された俺達にも通り一遍の礼儀は尽くしてくれる金持ちにしては上等な部類の人間ではないだろうか。
ただ、今にも拝み出さんばかりに三蔵の方を崇拝するような眼で見ているのが当の三蔵には気に入らないらしい。 イイもイヤもないような無表情からは分かり難いが内心かなり辟易している筈だ。
・・・またやっちまったんだな。
昨夜一人だけ主人達の部屋に呼び出された三蔵がなにがしかの『お願い』をされたであろう事は想像に難くない。
そして三蔵は望みを適えてやった。
部屋に戻った三蔵自身は何も言わなかったが主夫妻の様子を見ればそれ位分かる。
玉石のような紫の瞳。
輝かしい黄金の髪。
心地良く響く低い声。
凛と伸びた水鳥のような首筋。
迷い無く衆生を導く揺るぎない背中。
どれもが人を惹き付けて止まない。
死に引き摺られていた八戒と、生まれの事でヒネていた俺と。 「生きて変わるものもある」そう説いた三蔵の声に、姿に、確かに何かを突き動かされ変えられた。
あの夫婦の『お願い』が何だったかは分からないが三蔵を特別に思う程の衝撃を受けた事は間違い無い。 借り物の洋服を着ていた昨日と違い聖服である法衣を身に纏った今尚の事三蔵の姿が神々しく見えることだろう。 そして三蔵は自分が他人に及ぼす力に驚く程無自覚だ。無造作に投げ掛けられた言葉に迷える羊達は溺れずにいられないと言うのに。
八戒達と主夫妻が話すのを壁に寄り掛かり眺めていると、 ふと顔を上げた三蔵と視線が合ったので何となくニヤリと笑って見せたら無視された。
三蔵は今はいつもの法衣姿でその見慣れた姿に安心する。
いつも着物姿のヤツが洋服を着ると一回り小さく見えて何だか妙に頼り無くて落ち着かない。 そうは言っても悟空よりは随分上背もあるし肩幅も広いのだが。
年上で傲岸不遜の鬼畜生臭坊主が頼り無く見えるなんてきっと雨にやられて頭が風邪でも引いているに違いない。
話が纏まったのを見届けてから屋敷の外に出てぶらぶらした後煉瓦造りの壁に凭れて煙草を吸った。 昨日利かない視界の中で見た印象より堅固な造りをしている。 妖怪に備えてこんな処にこんな頑丈な建物がある訳ではなく昔から外敵と街を隔てる役割を果たしているのだろう。
頭上から聞こえてくる物音に顔を上げれば三階のバルコニーと言う程では無いが張り出しになっている部分で三蔵が煙草を吸っていた。 手摺りに凭れ掛かるように半ば身を乗り出し西を向いていた。 それが特別な思惑があっての事ではなく単に窓の向きの所為であるのは分かっていた。 距離がある為三蔵はこちらに気が付かないようだ。
あの鬼畜坊主は短気だから半日の足止めも我慢ならないんだろうな、 と考えながら眺めていると風が吹いて法衣の袂がふわりと鳥の翼のように舞い上がった。風にまばらに流れる金色の髪。
夕陽に映える白と金。
たった一人で立ち尽くす背中を見ているうちに唐突に思った。
何故西へ行くのか。
剥き出しの敵意と殺意を幾度も突き付けられ死ぬような目に遭ってまで何故。 俺が感傷的に捕らえている程三蔵は弱くも儚くも無いが脆い人間の身である事に違いは無い。
そして同じ位唐突に気が付いた。
自分は三蔵を好きなのだと。
すとんと胸に落ちるようにここ暫くの落ち着かない感情の行き着く先が見付かった。
「あれ、悟浄こんな処でどうしたの」
不意に声が聞こえて来て顔を上げると向こうの方から悟空が歩いて来る処だった。 そう言えば少し前から姿を見かけなかったから大方暇潰しに散歩にでも行ってたんだろう。
「んー?ちょっとタバコ」
告げると視力の良い悟空は張り出しに居る三蔵にも気が付いたらしく見る間に嬉しそうな顔になった。
「あっ、三蔵だ」
「お?」
何故か咄嗟に三蔵に気が付いていなかったと言う振りをする。
「ほら、あそこ」
「あーホントだ」
自分の傍らに並び悟空が声を張り上げる。
「おーい、さんぞー」
大きく両手を振り回して呼ぶ純粋な喜びに満ちた養い子の声に、三蔵が振り返りこちらを見下ろして来る。
その表情は逆光で良く見えない。