ベネチアングラス
夕食の後「皆様でどうぞ」と差し出された遠い国の品である葡萄酒。長安からさほど遠くないこの辺りでは長安に様々な品を運び入れようとする隊商の行き来も盛んだと思われる。 恐らくこの屋敷の本来の役割は隊商を盗賊から護る為のものなのだろうと語れば、 悟浄も夕方外を歩いている時建物の堅固さに気が付いたと言った。
酒と共に出された器も矢張り異国の物で手に取ると厚みのある硝子がずしりと重い。
桃源郷を出て更に西へ。天竺よりも更に遠い西からこの器は運ばれて来たのだと三蔵が言う。
「そんな大切なモノ三蔵はともかく俺らにも出しちゃって良いのかね」
「使わないで飾っておいても仕様がねえだろ」
それだけ三蔵が主夫婦に信頼されていると皮肉を込めたつもりの悟浄の言葉は当の三蔵にあっさり交わされた。
赤や青や色とりどりの色に染められた硝子には赤葡萄酒の濃赤が似合うように思われたが供されたのは白葡萄酒で、 否、白と言うよりは黄金色のねっとりと甘い香りのする造られてから数年を経た酒だった。
「ジュースみたいで甘くて美味いな」
ふんふんと香りを嗅いでから杯を干した悟空が嬉しそうに言う。
「桃源郷の外って一体どんな世界なんだろうな?」
「そうですねえ・・・。様々な肌や髪の色をした人がいると聞きますね。 桃源郷内も結構色とりどりですけど食堂で見掛けた方達も外の世界の血が混じっているのかも知れませんね」
良く冷やされたそれはアルコール度数が低い事もあって口当たり良く葡萄酒の本来の製造法である「ハチミツ酒」 と言う名称を思い起こさせた。
外敵から屋敷と街を護る為だろう、この館には護衛のような人物が居る。 普段は何処にいるのか分からないが食事時になると食堂にやって来るので幾人かとは顔を合わせた。 恐らく異国からの商品を運ぶ隊商に護衛として雇われ、 その侭商人達の最終目的地である長安を目前にし隊商から離れ館に用心棒として身を落ち着けたのだろうと思われる。 悟浄のそれ程色調が強くもなく瞳も赤では無かったが赤い髪をした者もいた。 或いは浅黒い肌に青い瞳の者。桃源郷に於いて絶対見る事が無いとは言わないが割に珍しい容姿だ。
もしかすると三蔵のような金の髪も外の世界では珍しくないのかも知れない。 そう言えばこの屋敷に来てからは普段外で散々浴びせられる悟浄や三蔵への好奇の視線を感じる事は無かったと今更のように気が付いた。 屋敷の住人達にとっては赤も金も珍しい色ではないのだろう。
然し異変が長引いて外界との交流が途絶える事になればこの先どうなるか分からない。 最近では自我を喪失し暴走する妖怪達を畏れて西域への隊商の行き来は随分少なくなっているそうだ。
それはそうだろう。西域は人が住むには過酷な気候や地理で街や村はまばらにしか無いと聞く。 妖怪に襲われて道中で命を落とす事もそうだがやっとの事で辿り着いた街が妖怪によって滅ぼされていたりしたら、 或いは水や食料の補給も出来ない程の惨状に遭っていたら死活問題だ。 街と街を渡り歩いている最中にそれは起こるかも知れないとあってはそう易々とは旅に出る者もいなくなるというものだ。
同じ事は自分達にも言える。
異変の大元である西方の情報は長安へはあまり伝わって来ない。 誰かが情報操作をしているのかと三蔵に尋ねてみた事があるがそう言う訳では無く、 単にあまりにも遠くて詳細が伝わって来ないが故の事らしい。 道中の襲撃はともかく知らない土地土地の情報が不足している状態で異変の大元──── 何者かは知らないが黒幕の影響を強く受けた土地へと踏み込んで行くのはあまりにも危険と言えた。 そう言った意味では旅慣れた隊商の人々の交流地であるこの館に厄介になれたのは運が良かった。
三蔵も同じ気持ちだったらしく朝方は主達の恭しい態度に苛立っていたようだが事情が分かってからは一日を情報収集に費やしていた。
普段の三蔵は悟浄には縦の物を横にもしないとさえ言われる程自分からは何もしないし長安にいた頃も三仏神から拝命した任務を 「面倒くせえ」の一言で自分と悟浄に押し付ける事もままあったけれど。
ともあれ三蔵は悟浄が思っている程何もしていない訳では無かった。
何故そんな事を知っているかと言うと運転席を預かる身として、 自分も一日三蔵と同じく先々の街の様子やオアシスの位置等道行きの事を屋敷の人間に尋ねていたからだ。
悟浄と悟空が「もうヒマでヒマで」と散歩に出かけている間に。(←毒)
「これ何て書いてあるんだ、さんぞー?」
「リースリング・アウスレーゼ」
悟空に問われ碧色のボトルに貼られているラベルに印字された横文字を三蔵が読み上げる。
「銘柄憶えて長安に戻った時どっかの金持ちにでも貢がせるつもりかァ?」
からかうように悟浄が言うと三蔵はむっとしたように口元を歪め睨み返した。
昨日三蔵が怪我をして以来悟浄は何となく距離を置くように離れた処に立って黙って三蔵を見ていた。 刺客に襲われた際離れ離れになり、後で分かったのだが悟浄は三蔵と一緒に居た。 三蔵の怪我は既に気孔で塞いであるし致命傷と言う程の傷では無かったのだが、 守りきれなかった事に責任を感じているであろう悟浄が三蔵を気安くからかったりしない事を少し心配していた。 だから悟浄が三蔵に対しいつものように軽口を叩くのを見て安心した。
目の前で人が傷付くのは怖い。
その感情を自分は知っている。
だが悟浄が目の前で怪我をした三蔵に対して過剰に反応したのは正直意外だった。 血を見るのが怖いとか誰が怪我をしてもイヤだとかそう言う訳で無いのは三年の付き合いの間にそしてこの旅の間に分かっている。
顔を合わせれば言い争いばかりしていると思っていたのに。
本気で仲が悪い訳では無い事は知っている。 だが相手が怪我をしてあんな風に黙り込んでしまうような間柄では無いと、 寧ろ怪我した時にはわざと揶揄する悪友のようなものだと思っていた。
何時の間に、ねえ・・・?
硝子の杯を口元に運びながら悟浄の方に視線を向けると「何笑ってんだ八戒」と言われた。 笑っているつもりは無かったんですが。
・・・いえ、笑っていたのかも知れませんね。