壊れた時計
白い脚に蹴り上げられ体が宙を飛んだ。蹴られた時か壁にぶつかった時か壁に当たった体が跳ね返り床に落ちた時か。 何時かは分からなかったが胸の奥でぼきりと厭な音がした。
「が、は・・・」
自分の体がどうなっているのか分からない。とにかく胸が、肺が熱い。呼吸をすると死んでしまいそうな痛み。 いっそ気を失ってしまいたかったが義母の前で気を失ったりしたらそれこそ殺されてしまうに違いなかったので必死に痛みを堪え意識を保った。
悲鳴が出るうちはまだマシなのだと初めて知った。声が出ない。呼吸を止めてしまいたい程の痛みが胸にあるが息をしなければ窒息してしまう。 胸の痛みと窒息死と、選択肢を突き付けられ死んでしまうよりはと口を開いてゆっくり空気を吸い込んだ。 呼吸に合わせて咽からか肺からかひゅうひゅうという厭な音がする。
身動きも出来ない自分が意識を保っていた処で次に義母がどうするつもりか分からなかったが、「次」を避けられるとは思えなかった。
兄貴が義母を止めてくれなかったらその時俺は死んでいたかも知れない。
「・・・・・・」
イヤな、夢を見た。部屋の中が暗いからまだ起きるには早い時間だと言う事が分かる。
起き上がるのも面倒で寝転がった侭ぼんやり夢の続きを考える。 あの時兄貴に付き添われ病院に運ばれた処折れた肋骨が肺に刺さっていて即入院させられた。 今だったら「女のクセに馬鹿力」だとか「暴力女」だとか罵り言葉の一つも言っている処だ。
今にして思えばあの頃の義母は精神を病み始めていたのかも知れない。 良家の嫁として迎えられ跡取り息子まで産んだのに夫が愛人を囲っていたと、 しかも子供までいたとある日突然知らされてどんな気持ちだったか。 ま、同情に値すると言える。
誰か医者に連れてってやれば良かったのに医者に診せるべきだと親父に進言するヤツも、義母に医者に行けと言ってやるヤツもいなかった。
誰だって身体が悪いとは思うまいと言う程の暴れっぷりだったので彼女の身に巣喰う病巣に誰も、本人さえも気が付かず、 彼女が不調を訴えた時は既に手遅れだった。 入院して数ヶ月後に彼女は亡くなったが俺はお仕着せの黒い正装を着せられはしたものの葬儀には参列させて貰えなかった。 母親譲りの赤い髪は黒の喪服に見事な迄に似合っておらず、鏡に映った自分を見て初めて義母が俺を嫌った理由が分かった気がした。
退院した後も義母の暴力は続き出刃包丁で頬を斬り付けられた事もあった。 彼女が最後に残した傷。縫うと糸の痕が残るとかで縫わずに治療された。 バイクで事故った友人の腕を見た事があるが縫合した箇所に確かにくっきりと傷と、糸の痕が残っていた。 顔を縫われていたら今頃キャプテン・ハーロックだった訳だ。
「格好良いじゃん」
誰に言うともなく呟いてベッドの上に起き上がった。
煙草に手を伸ばしライターに火を灯した拍子に時計の文字盤が明かりを反射したので見るともなしに時間を見た。 2時少し前。寝直すには充分な時間だ。
紫煙を吐き出した時ふとシーツから自分以外の匂いがしたような気がして鼻を寄せた。 煙草の匂いに紛れて既に消えてしまったかと思っていた、三蔵の残り香。
自分の事を殆ど話さない三蔵がぽつりぽつりと生い立ちを語ってくれたのは昨日の事。 このベッドの上で、自分は捨て子だったのだと告げた。
俺は、実母には虐待はされなかったが。
三蔵を産んだ女の事を想う。
十月十日その腹の中で育てた命を産み落としてすぐに自分の手の届かぬ場所に棄て去る気持ちと言うのはどんなものだったろう。 腹に赤子が居る間ずっと、いっその事死んでしまえば良いのにと呪いを掛けただろうか。 三蔵は何処にも逃げ場の無い女の腹の中で産まれ落ちるその日まで、お前の誕生を望んでなどいないのだと呪われながら育ったのだろうか。
『死んでしまえば良いのに』
聞いた事もない女の声で呪詛を吐き掛けられ目を覚ました。
時計に手を伸ばしながら起き上がってみると夜中の1時50分。
暗闇の中小さく息を吐く。
あれは、誰の夢だ?
自分がいつも見る夢とは違う。 産まれる前の肉塊だった頃から、子宮の中で赤くねばつく粘膜の中で子守歌の様にこの身を揺らしていたその呪い。 子供の頃から何度も何度も繰り返し見たあの夢では、無い。顔も知らない誰かの腹の中ぐにゃぐにゃした塊に過ぎなかった自分に向けられた憎悪。 恐らくは夢などでは無い覚えても居ない原風景。元より逃げ場などありもしなかったが逃げたいとも思わなかった。 死を、望む怨詛は自分に似つかわしいように思えたから。 それ程呪っていたのならいっそ殺してしまえば良かったのに何を思ったか生かした侭自分を棄てた女がこの身に残した詛。
この身に呪(しゅ)を染み込ませる聞き慣れた声とは違う、誰かの声。
言葉が呪になると識(し)らない侭乞い願うだけではなくその声帯を震わせ甘い艶やかな声で死を賜る言霊を紡ぐその声。
息苦しくなって両膝に顔を埋めた。
呪いを掛けられた肉体の侭生きている誰かの為に。
そっと、眼を閉じた。