飛行機雲
「あ、ヒコーキグモ」「あ?」
思わず呟くと隣で三蔵が空を見上げた。3月とは言ってもまだ春と言うには程遠い気候のこの時期。 寒いのが苦手な三蔵は厚手のロングコートを着ている。
「三蔵ベタ過ぎ。そっちじゃなくて」
ほら、と新聞を開いて見せると馬柱にヒコーキグモの文字。父キーン、母バーレインスター、母の父スターアピール 。 東風ステークスなんて地味な名前の地味なオープン戦の出走馬の中にその名前はあった。
からかわれた事が不愉快だったのか一瞥した後むっとした表情で三蔵は黙り込んだ。 マークカードに買い目を乱暴に記入し券売機に向かって行くのに慌てて後を追えば
「ついてくんな」
と険しく言われた。
「俺だって買うんだよ」
「わざわざ俺の後ついてくんなっつってんだよ」
「同じタイミングで書き終わっただけだっつの」
ムキになって早足になるのにこちらも早足になって追いついて三蔵の隣の機械を陣取り言い返しながら券売機にマークカードを突っ込むとばかでかい音量のエラーを知らせる合成音声が聞こえて来た。慌てた所為でマークミスをしたらしい。
延々と聞こえてくる『マークカードヲ修正スルカ精算ボタンヲ押シテクダサい』と言う声は不必要に大きくて周り中の人間に 「あいつはマークミスをした」と知らせる晒し者効果があって非常にムカつく。
券売機の後ろに控えているパートのおばちゃんが窓から顔を出す。
「どうしました?」
クソ、素人じゃねえんだから自分で何とかするっつの。
「あ、いえ大丈夫です」
言いながら手元のタッチパネルで投票内容を修正して馬券を購入した。
発券された馬券を見ると買った憶えの無い組み合わせだったので驚いた。 急いで新聞を確認すると馬番と枠番をチェックし間違えたのだと分かった。
『これは三蔵を笑った呪いか!?』(←違います)
飛行機雲とヒコーキグモを間違えたのは三蔵が悪いがヒコーキグモが飛行機雲と同じ発音の名前なのは確かに三蔵の所為ではない。 馬主の小○切氏の所為だ。
『小○切氏のバカバカバカ・・・』
口元を不機嫌に引き結んだ侭の三蔵の横顔を見ながら心の中で呟いた。
その後一点買いで馬券を的中させた三蔵は東風ステークスに出走する馬達がパドックを周回しモニタに写し出されて来る頃には機嫌を直していた。 俺の方は三蔵の呪いかはたまたバカと言ってしまった小○切氏の呪いかさっぱりだったが、不機嫌なツラの三蔵と一緒にいるよりはずっと良い。
ヒコーキグモはジョッキーの勝負服の柄に合わせた緑と赤と白のメンコを被っているだけでは無く、 同色のボンボンを頭頂に付け、あまつさえワタリまで同じく緑と赤と白で編まれているという手の込んだ馬装だった。
「すげえなあ。3色のワタリって編むの大変そうだよなあ」
「そうだな」
「あんなにオシャレしちゃってヒコーキグモって牝馬だったっけ?」
ただのファッションとして不要にオシャレをさせる厩舎や厩務員も稀にはいるが馬装と言う物は基本的には必要に応じて身に付けるものだ。 例えば面子(メンコ)。音に敏感な馬の為の耳覆いとして被せるものだが耳に覆いの無いメンコを被っている馬もいる。 耳を覆う必要が無いのに何故そんな物を被せるかと言うと遮眼帯(ブリンカー)を装着する為だ。 ブリンカーは馬の視野を器具を被せて狭くさせる事によって余計な物を見ないように、 余所見をしないで走りに集中させる為に装着する。
耳覆いも無くブリンカーも付けていないメンコを被っている場合、それは単に厩舎の方針か厩務員の趣味だ。
メンコは一種のファッションにもなるので名前が刺繍されていたり名前に因んだ柄がプリントされている事もある。 因みにヒコーキグモの場合馬主支給の小○切氏所有馬お揃いのメンコだ。
次にボンボン。アレは「近付くと噛むから注意」印だ。迂闊に近寄るんじゃねえ、という目印。 わざわざ3色で作ってあるのは恐らく厩務員の力作だろう。
そしてワタリ。これは単なるファッションだ。鬣の三つ編みだったりリボンの編み込みだったり馬を飾り立てる方法は幾つかある。 どれもこれも手間も時間もかかるだけで純粋に馬の見栄えを良くする意外の目的は無い。 しかもその為に3色のリボンで編み込みと言うのは並大抵の凝りようでは無い。 ヒコーキグモは牝馬だろうかと疑問を抱くのも当然なのだ。手の込んだ馬装は牝馬に施される事が多い。オンナノコは可愛いしな。
「牡馬だ」
あっさり三蔵に告げられそうだよなあ、と思う。
「だよな。知ってる?オシャレジョウズは全然オシャレしてないんだぜ」
オシャレジョウズと言うのはヒコーキグモと同じ馬主の持ち馬だが小○切氏のお揃いメンコさえ被る事なくいつもスッピンでレースに出走する。
「素顔の侭が一番美人って事だろ。てゆーかてめえの方がベタじゃねえか」
「さんぞーそれセクハラっぽ〜い」
オシャレジョウズがスッピンで登場する度確かに「オシャレジョウズはオシャレしてないじゃねえか」 と言うオヤジの寒い突っ込みが回り中から聞こえて来る。ベタと言うよりコレを言ってしまったらオヤジなのだろう。 悔し紛れに言い返したが鼻で笑い飛ばされた。
「あ、ヒコーキグモ」
ここの処勝ち星から遠離っていたヒコーキグモが果敢にハナを奪い逃げに出た。
逃げ潰れてくれないと困る。
ヒコーキグモの名前を出したのがケチの付き始めだったような気がしたのでヒコーキグモ絡みの馬券を買っていないのだ。
そろそろバテてくれ。
祈りながらヒコーキグモが2番人気だった事を思い出す。
頼む。
やっぱり2番人気の馬を切ったのはまずかった、思いながら尚も祈る。
もうゴール板目前なのに先頭を走るヒコーキグモと後続の馬とは2馬身近く差が開いている。
・・・・・・!!
俺の祈りは競馬の神様には通じなかった。
「あーもー・・・散々」
ぱあっと外れ馬券を宙に散らしてみれば風に吹かれて自分の頭の上に降って来てしかも角がすこんと刺さった。
「散らかすんじゃねえよ」
子供を躾る時のような我慢強い声で三蔵が咎める。 三蔵は万馬券を獲っても騒ぎもしないし馬券が外れても悔し紛れに外れ馬券を地面に叩き付けたりぐしゃぐしゃに丸めたりもしない。
「へーい・・・」
少しセツナイ気持ちになりながら地面に屈み込む。 掃除のおばさんがレースの合間に掃き清めても追い付かない程外れ馬券は山と落ちていてどれが自分が放ったヤツか分からなかったが気にせず手近に落ちている馬券を拾ってゴミ箱に放り込んだ。
「駄目だ、もう今日は何を買っても当たる気がしねえ」
「とか言いながら新聞広げてるんじゃねえよ」
そう言う三蔵も既に新聞をひっくり返し一面を表にしている。
「ははっ」
だって次メインレースだし買わない訳にいかないっしょ。笑いながら横目で見てみると三蔵もどうやらこのレースは取れなかったらしく顰めっ面をしていた。
「メインレースで取り戻す」
ビシリ、と赤ペンを突き出して宣言すると三蔵が微かに笑った。気がした。