煙
「あんた・・・」と言ってからああ、と言う顔をしたので名前を呼ぼうとしたのだと分かった。
毎週通っている競馬場でここの処顔を合わせるようになったど派手な赤毛の男。 煙草を吸っていると何故かいつも話しかけてくる。
常ならともかく10万以上の人間が集まっている年末のこの日、有馬記念。 こんな日にまで会う約束もしていないヤツと何故かまたしてもハチ合わせ。一体どうなってるんだか。
「俺は沙悟浄。サはサクラホクトオーのサ」
カチリと音を立ててジッポに火を灯しながらそいつが名乗る。
サしか合って無いじゃねえかとかサクラならそれこそ去年の有馬を制したローレルとか (今日の入場券には昨年のローレルの雄姿が印刷されている) そうでなければチトセオーとか他にも有名どころが揃っているのに何でホクトオーだとか突っ込む処は色々あったが、 名乗られて黙っている訳にもいかなかったので名前を告げた。
「・・・玄奘三蔵」
「三蔵のサンはサンデーサイレンスのサン♪」
「何処がだよ」
一瞬で名乗った事を激しく後悔した。
何回か競馬に誘う事もあった知り合いに「儲ける為に馬券を買う」と言われた事がある。
生きて歩いている確かに体温を持つ目の前の生き物が札束にしか見えないなんて、 こいつは頭がオカシイんじゃないかと思ったが、 きっと向こうには金にもならない馬に金を突っ込み続ける俺の方こそ頭がイカレテいるように見えていた事だろう。 二度と競馬に誘う事は無かったがだからと言って縁まで切った訳じゃない。そこはそれ、大人だし? それなりのお付き合いをするだけのヒトになっただけ。
好きな馬が不振の時でも飽きず単勝馬券を買い続ける三蔵を見ていると、 こいつにはターフを走る馬が札束に見える事なんてないのだろうなと安心する。 同じスタンスで馬に対して接している人間となら一緒にレースを見るのも悪くない。
馬券派かロマン派かで同じ競馬ファンと雖も話の内容は随分違って来る。 三蔵がどっちか見極めるまで俺は無難な事しか口にしないよう用心していたのだが、 三蔵はつまらない小細工をせず馬が好きなのだと言い切った。
いつものように口の端に煙草を銜えながら誰に憚る事も無く馬が一番で馬券は二の次だと自信を持って言い切れる潔さにクラクラした。
「携帯の番号教えて?」
久し振りに会った悟浄がそう言って取り出した携帯にはエアグルーヴのストラップ。 男のくせに馬のマスコットストラップなんてしてるんじゃねえよ。
どうするか数秒迷った後ヤツが余りにも情けない目をしていたので仕方なく携帯を取り出した。
煙草の煙越しにせかせかと携帯のボタンを押し合う。
中山でいつも顔を合わす競馬仲間。気が付けばそんな仲になっていた。
ヤツの好きな女帝エアグルーヴの引退レースの日。 女帝は花道を飾れなかったにも関わらずヤツは笑って「おめでとう」と言った。(俺の好きな馬が勝ったからだ)
配当金で飲みに行くと(勿論オケラ街道じゃない処だ)酔いの回ってきたらしい悟浄が、 自分がどれだけエアグルーヴを好きだったか語り始めた。
「エアグルーヴの初年度はサンデーかブライアンズタイムらしいぞ」
女帝は引退後繁殖に上がり母となるのだ。 その初年度の交配相手候補がかの三冠馬ナリタブライアンの父・ブライアンズタイムと、 今をときめくリーディングサイヤーサンデーサイレンスだ。 誰もが予想していた、そして考え得る限り最高の組み合わせだ。
「エアが母になるのかあ・・・」
コンニャクに芥子を付けながら悟浄が呆けたように言う。
「きっと母親似の凄い可愛い仔が生まれるんだろうなあ。最初は牝馬が良いよな」
あ、でも。口の中で呟いてから続ける。
「牡馬でも良い」
「牡馬の方が高く売れるだろうが」
牡馬の方が市場では高値で取り引きされるので牡馬を産む母の方が有り難がられる。 女帝とまで呼ばれた彼女が牡馬を産まない事で少しでも評価が下がるのがイヤなのだろう。 それでも母親と同じ牝馬が生まれれば良いと思ってしまう悟浄を、可愛いトコロもあるヤツだと微笑ましく思った。
「あのさ」
煮卵を皿に取りながら三蔵に切り出した。
「何だ」
「府中は遠いから行くのがイヤっつーのは聞いたけど、来年はダービー見に行かねえ?」
飲みに行こう、いつもの競馬場を出てと誘いかけてきたのは三蔵の方からだった。 踏み込むのに人見知りのガキみたいに一年もかかった隔てをあっさり三蔵は突き破ってみせた。その鮮やかさに俺は目を奪われる。
次の一歩を踏み出すのは俺の方からだ。
「・・・そうだな」
日本酒を杯に注ぎながら三蔵が返答する。
「おし、本当だな?今日以上に凄ぇ人混みだけど本当にオッケー?」
「たまにはダービーを生で観戦するのも良いだろう」
「んじゃ来年は気合い入れて前売り券ゲットしなくちゃな」
「まだ半年も先の事だろうが」
呆れたように三蔵が言うのが何やら妙に可笑しくて笑いながら醤油色に染まった煮卵をぱくりと口に含んだ。