冬の雀
一瞬加速して昨年の最優秀4歳牡馬に並び掛けた雨に濡れた栗毛はその後トップスピードに入る事無くレースを終えた。
ゴールを駆け抜けた馬達が次々と脱鞍所へと戻って来る中彼が今どんな表情をしているのか見たいとその姿を目で探すがキャンターで戻って来る馬達の中にその姿は無く、
漸く雨に打たれて一頭だけじっとターフに佇む姿を見付けた。グランプリ4連覇を懸けて出走した王者が世代交代とばかりに年下の馬に王座を譲り渡した。
スタンドからは新しく誕生したグランプリホースへの祝福の歓声が聞こえて来る。
口惜しいのか。
そう思ったのは一瞬で、鞍上が突然下馬した。
走り寄る係の者に手綱を曳かれれば不自然にびっこを引く姿。
それが「怪物グラスワンダー」のラストランだった。
「あ、引退記念グッズ出てる」
グッズ売場のテントに群がる人混みの横を通り過ぎながら悟浄が言った。 ちらりと眺めてみるとレプリカゼッケンやヌイグルミの山に混じり限定テレカが並べられていた。
「買わねえの?」
「どうせテレカだろ。いらねえよ」
「それもそうだ・・・あ、じゃあ駅で売ってる限定イオカ買ってねえの?」
此処中山競馬場に隣接しているJRの駅では期間限定で昨年のレース写真がプリントされたイオカードを販売している事がある。 今の時期のイオカードは昨年の有馬記念の勝馬グラスワンダーのものだ。
「それは買った」
50度数で1,000円のテレカと違ってイオカードは額面通りの金額だしな。
「ヌイグルミとか買うか?」
「お前じゃあるまいし誰が買うか」
グラスワンダーの骨折の程度は酷く、競争生命を絶たれた事はおろか一歩間違えば予後不良になっていてもおかしくないものだった。 骨折後は所属する美浦に移動させる事すら出来ずレースの行われた阪神競馬場の厩舎に留め置かれた。
それでもこうして生きているのがこの馬の運の良い処なんだろう。
有馬記念の日の昼休み。 これから執り行われる引退式の為にパドックを周回している姿を見てそう思う。
真冬の最中だと言うのに珍しく日が差していて赤い色に近い明るい栗毛が美しく輝いている。
こうしてパドックでこの馬の姿を見る事は二度と無いのだ。そう思いその姿を網膜に焼き付けておくべく息を潜めて眺める。 いつも穏やかな眼をしていた大きな瞳を、歩揺に合わせて僅かに撥ねる鬣を、光を受けて輝く馬体を、全てを。
「有馬の日にグラスを見るのは3度目だな」
隣から話し掛けて来るのは「赤に近い栗色」では無く本物の赤い髪をした男。
「・・・そうだな」
去年、一昨年、そして今年。そう言えば毎年悟浄と・・・。
「そう言えば有馬って毎年三蔵と一緒に見てるな」
自分が考えていたのと同じ事を悟浄も考えていたので少し可笑しくなった。
「去年のグラス凄かったよな」
「・・・ああ」
『凄い』と言うのが体型の事なのかと一瞬考えた後、悟浄の言っているのはレース内容の事だと気が付き返答した。
元々太りやすい体質なのだろうがプラス12kgの馬体重に、 サラブレッドと言うよりは牛、現役の競争馬と言うよりは種牡馬、 2,500メートル芝よりは1,200メートルダートだろうと言いたくなる程ころころと変わり果て揺れる腹で登場したグラスワンダーが1スリット、 僅か4センチのハナ差で天才騎手が手綱を取るダービー馬を退けたのは一年前の事。
それから一年経ち、引退式の今日。目の前でパドックを周回しているのは更に丸くなった姿。 骨折していた為運動が出来ず太ってしまったのは分かるが。
「・・・シルクジャスティスも吃驚だな・・・」
「あ?」
「ハラ」
誰の、とは言わない。
「ジャッピ以上だろ。ヒシアケボノも吃驚っつーか」
「そうだな」
九死に一生を得たヒーロー、或いは骨折でターフを去った悲劇のヒーローである筈なのに最後の晴れ舞台でこの姿だ。 らしいと言えばこの上なくらしくて何だか笑えて来る。
引退式の為に馬が移動するのに合わせて人波も一斉に動く。 大概のヤツが昼飯を食っている時間だと言うのにウィナーズサークルの周りは既に近付く事も出来ない程の人だかりなので近くで見る事は諦めてスタンド前の通路に立ってウィナを見下ろした。
大抵の引退式ではここで引退馬は騎手を背中に乗せてターフに現れ4コーナーからゴールに向けてただ一頭走り抜け、 文字通りのラストランを迎える。
美味い物でも落ちているのか芝をつつき回っている鳩や雀はレースの時ならばコーナーを廻って来る馬群の跫音に驚いて飛び立つものだが、 症状が小康状態になってからは北海道へ移動し治療していた、 今日の為に関東に呼び戻されはしたもののまだ完治していないグラスワンダーは雀を驚かすキャンターはせず引退式の間花輪を首から下げて関係者の近くをぐるぐる曳き回されているだけだった。
それだけの怪我を乗り越え、生きていると言うその事が。
其処まで考えるとそれ以上思考が纏まらなくなった。 ただ真冬の寒さに白い息を吐き出しながら栗毛色の馬体を眺めている事しか出来なかった。
ターフビジョンに映し出される過去のレース映像を見て中には涙ぐんでいるヤツらもいたが隣でひっそりと立ち尽くしている三蔵は泣いたりはせず、 ふと見ると口元に微かに笑みを浮かべていた。 「立ち尽くす」と言う言葉が相応しい程に一言も発さずグラスワンダーと言う馬を瞳に焼き付けながら。
「・・・グラスは良く頑張ったよ」
ファンでなくとも皆が知っている。GIのタイトルを手に入れた後の骨折。復帰後の凡走。 冬寒の空の下嘗てGIタイトルを手にした中山で再度の栄光を手にした後怪我をして全身麻酔の手術。 それでも再度復活してみせて、然しその後体調不良による出走回避。 ぶっつけで真冬の中山で復活劇を再び見せた、それが一年前の事。
馬体が弱いのは競走馬として致命的な欠点であるにも関わらず何度もそれを乗り越えてみせた。 苦労知らずそうなのんびりした顔で辛苦を隠し何度もターフに戻って来た。
「そうだな」
呟くとその場を離れるべく三蔵がスタンド内に向かい歩き出した。
三蔵が何故この馬を好きなのかは知らない。尋ねるつもりも無い。
ただ三蔵がこの馬を好きな事は意外なようでもあり酷く似合うような気もする。それだけで充分だ。
軽食を立ち食いしながら6Rのパドックを見る。 つい先程まで胸に迫るような引退式を見ていた人間の取るにおよそ相応しくない行動だがそれが競馬ファンの悲しい習性と言う物だ。
「有馬はやっぱりオペラオーかな」
新聞を捲りながら今年の夏、グラスワンダーが骨折しラストランを迎えたレースで栄光を手に入れた現役最強馬の名前を挙げてみる。
「多分な」
インスタントのコーヒーを啜りながら答える三蔵の表情に翳りは無い。
恐らく、来年の有馬記念も三蔵と一緒に見る事になるのだろうと、その横顔を見ながら何となく思った。