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助手席
その頃俺は、離れと言うと聞こえは良いが物置小屋としか言いようのない納屋で寝起きしていた。 就寝前のお師匠様のお支度を済ませ納屋に続く石畳へと降りようとしていた。 山桜が咲き始めていた。 寺の朝は早い。自分のような小坊主ともなれば尚の事だ。花見時になり暖かくなると早朝起きるのも冬季と比べればずっと楽になる。 明日も穏やかな気候だと良いと、宵闇に浮かび上がる薄桃色を眺めながらそんな事を考えて少しぼうっとしていた所為だろう、 背後の気配に気が付かなかったのは。横合いから伸びて来た手に口を塞がれ怒鳴り声を上げかけたが頸ごと抑え込まれ、 否、頸だけではなく腕を後ろ手にねじり上げられずるずると踵を床板につけた侭引きずられた。 無防備な背中を晒した侭放心していた自分の愚かさを呪っても手遅れだった。 放り込まれたのは堂宇内にある布団部屋だった。皆が就寝の支度を済ませた時間とあっては誰も来ないであろう部屋。 布団が無くなっているこの時間ならば広々と躰を動かせるから反撃するには充分の広さだ、 そう思ったのだが自分を此処へ連れ込んだ奴らは当たり前と言えば当たり前だが拘束した俺の腕をほんの僅かでも解放するつもりは無いようだった。 床に投げ出された俺の上に跨るようにして一人、そして両腕を広げるようにしてそれぞれの腕に一人ずつに張り付かれていた。 まだ10にもなっていない頃で流石にこんな不利な体勢を取らされた上に3人がかりとあっては勝ち目は無いように思えた。 勝つどころか隙を見て逃げ出すのが精一杯かも知れない。 だがやられっ放しは性に合わない。 負け犬のようにみっともなく逃げ出すにしてもせめて多少なりとも反撃をしてやる、何かおかしいと思いながらもそう考えて隙を窺う事にした。 腹を括って冷徹な傍観者に徹する事を決めると、先程から自分が何事かをおかしいと感じているその理由が分かった。 この坊主どもは「拾われ子の分際で光明様の弟子気取りなんて生意気なんだよ」 だの「河に流された時に死んでいれば良かったのに」だの 「大方産んだ事を人に言う事も憚られるような生まれなんだろうよ」だの、 こういった時自分に投げ掛けられるおよそ目新しい事のない口汚い罵り言葉を発して来る事が無かった。 はあはあと荒い息を吐いているだけで、絶対的に有利な体勢にいるにも関わらず拳が俺の顔目掛けて降って来る事も無い。 薄暗がりの中で良く顔は見えなかったがいつも俺を憎々しげに見ている一団の奴らでは無い事は分かった。 どちらかと言うと体術も駄目、教典の解釈をさせても駄目、揚げ句規律も碌に守れないわという奴だった筈だ。 だがだからと言ってこいつらが俺を嫌っていないと言う事もあるまい。 声高に俺を罵っては突っ掛かって来る奴らは要するに、それだけ「自分こそが光明三蔵の弟子に相応しい」 と自負するだけの実力と裏付けの在る奴らだ(人格は置いておくにしても。そしてその人格的欠陥に本人が丸きり気が付いていない事を差し引いても)。 大きな声で俺を嫌っていると面と向かって言わないからと言って俺を疎ましく思っていないとは限らないのだ。 誰に憎まれようがどれ程多くの者に蔑まれようが何とも思わないが。 ともかくそんな事よりも今はこの場を何とか凌ぐ事が重要だった。 俺の上に跨った奴が顔を近付けて来る。 息が掛かる程間近で蔑みの言葉を吐き掛けられた事はそれ迄に幾度もあったから今回もそうだと思い眼を逸らさない侭そいつの顔を見据えた。 そんな言葉に俺は屈しないのだと見せつける為。 だが俺の考えた事と奴の考えた事はどうやら違っていたようで、 降るように近付いて来る奴の唇が言葉を吐き出さない侭自分のそれに触れそうになる段になって漸く俺は慌てて顔を背けた。 そいつは俺の抵抗に驚いたらしく少しの間その侭の姿勢で動きを止めたが、 次の瞬間顔を背けた事で剥き出しになった俺の耳の後ろをねっとりと舐め上げた。 その感触の気色悪さに思わず叫び声を上げそうになると再び手で口を塞がれた。 ああ、そうだ。こういった時口を塞がれた事は今迄無かったと、違和感のそもそもの正体に気が付いたのはその時だった。 俺は殴られても突き飛ばされても悲鳴を上げたり助けを求めたりした事は無かった。 いつも「ガキはガキらしくびーびー泣いてりゃ良いんだよ」と、暴力に堪え切れなくなって泣き出す事を期待されていた。 他者に頼る弱者など光明三蔵法師のお側に居るに相応しくない者だと、そう証明する事を奴らが望んでいたからだ。 湿った掌が口を覆う。こいつらは悲鳴を、(万が一俺が悲鳴を上げたとすればだが)他の者に聞かせたくはないのだとその時悟った。 「なあ、江流。良いだろう?」 まだガキだった俺は性行為と言うものを知らず、自分が何故こんな目に遭っているかは分かりはしなかったが、 本能的な処で自分が殴られるのと同じか、或いはそれ以上に酷い事をされそうになっているのだと言う事は分かった。 「ヨくしてやるから」 ざわざわと無骨な手が身体を撫で上げ衣を割る合間に生温い息と共に告げられる言葉。 反射的に跳ね上がりそうになる両腕は押さえ付けられた侭床板の上から上がる事は無かったが。 「どうせお前、師範代と」 俺と朱泱が、何だ? 覆われた侭の口からは奴らの狙い通り声が零れる事は無かったが。 俺の上に跨っていた奴がおぞましくも両脚に手を這わせた時も俺は目を逸らさないでそいつの動向を伺っていた。 そいつが俺の白衣を捲り上げながら下に身体をずらした時、 そいつの身体の下から片足を引き抜き膝を折ってから勢いを付けてそいつの顔面を蹴り付けた。 「が・・・っ!」 後方へと倒れて行く仲間に驚いたらしいその隙に片腕を押さえ付ける力が緩んだ。 もう片方の腕を押さえていた奴は俺の反撃にも関わらず油断無く力を抜く事は無かったが、片腕が自由になりさえすれば充分だった。 自由になった腕で未だ残りの腕を押さえ付けて居る奴の顔面、鼻っ柱を狙って拳を振りかぶった。 半ばのしかかるようにしていた為そいつは逃げる事も適わず拳を正面から喰らってもんどり打つ。 漸く両腕の拘束を解かれて俺は直ぐ様立ち上がってその場から逃げ出した。 待てと、背後から声が聞こえたが勿論脚を止める事も無く。 自室に駆け込んで中から扉を押さえてから自分が裸足だと、草履を何処かに忘れた侭だったと気が付いた。 何故逃げ出したのかと、朝課でそのツラはどうしたのかと皆がじろじろと眺める程に面相が変わる迄叩きのめしてやれば良かったとその時になって漸く考える事が出来たが、 同時に自分の脚が震えている事に気が付いた。 声も立てない侭寝台から撥ね起きた。 起き上がってみればそこは記憶の中のあの寺では無く、当然の事ながらあの男達も室内には居なかった。 三仏神の命を受けての西へ向かう旅の途中の宿の一室で俺は一人きりで寝ていた。 夜明けには遠い時間らしく室内は闇色に塗り潰されている。 未だ闇に馴れて来ない眼を凝らしてみなくとも室内に他人の気配が無い事は分かった。 10年以上も昔の出来事だった。忘れたつもりでいた、否、忘れていたと思う。 本当に自分の身の上に起こった事なのかも曖昧な何処かぼんやりした記憶。 そもそもあれが本当に起きた事だったとして、あの坊主どもがその後どうしたのかが丸きり記憶にない。 それきり顔を合わせなかったと言う事はあり得ない、かと言って繰り返し同じ事を仕掛けられたのだったら覚えていただろう。 俺が金山寺を下山するより前に奴らは寺を出ていたのだろうか。 古い映画でも見ているかのように何処か他人事のように感じる記憶を探ってみるが虫に食われ空いた古文書の穴のように所々記憶が致命的に抜け落ちている。 空白の、どうあっても思い出す事などあり得ないと言う手応えに何度か頸を振った。 立てた膝の上に顔を突っ伏し大きく息を吐く。男達に身体を撫で回された感触が未だ肌に残っているようで気持ち悪かった。 この生々しい不快感さえなければただのタチの悪い夢だと思えたのだが。 裸足の脚をぺたりと床に降ろし風呂場へ向かう。 「具合でも悪いんですか?」 「別に」 八戒がこちらを伺っているのは顔を上げるまでも無く分かったが視線を合わせる事なく答える。 あれから乱暴にシャワーを浴びたものの肌に触れられた気色悪さは消えず再度横になってみたが結局一睡も出来ない侭朝を迎えた。 食欲も沸かぬ侭朝食の席に着き粥を一口啜ってみれば胃がむかついてとても食い物が喉を通りそうになかった。 「三蔵食わねえの?だったら俺がもーらいっ」 「駄目ですよ、全然食べてないじゃないですか」 普段悟空の大飯喰らいを咎めた事の無い八戒が悟空の腕が俺の器に届く前に制止の声を掛けるのを他人事のようにぼんやり聞きながら未だ頭から離れないあの日の不愉快な出来事を思い出す。 あんな気色の悪い事を、折角忘れていたのに何故今更思い出してしまったのか。 大体自由が利くようになって脱兎のように逃げ出すとは何事だとガキの頃の自分にも腹が立った。 あんなヤツら二目と見られなくなるまでぼこぼこにしてやれば良かったじゃねえか。 そう思ったのだがぞくりと厭な感触が背中を這い上がって来たので抱きすくめるように両腕を自分の身体に回した。 きっと胸クソが悪いのは軟弱な自分に腹が立つが故だ。 「何、三蔵サマ具合悪いの?鬼の霍乱?」 面白そうに言って来る声に視線だけ声の元に向けてみればその声音と寸分違わぬ薄ら笑いを浮かべた表情が目に入った。 硝子窓の格子越しに差し込んで来る朝の光にいつもより明るい色合いに見えるその赤い瞳を見た時何かが引っ掛かった気がしたが無視して悟空に食い残しの器を押し付けた。 「三蔵・・・」 「腹は減ってない」 八戒の言葉を無理矢理遮り席を立った。 「三蔵、何処へ?」 「部屋へ戻る」 言い置きテーブルに背を向けて歩き出すとこびり付くような視線を感じた。 ここの処ヤケに頻繁に向けられるようになった悟浄の視線。 ふと向けられたと言うレベルでは無く、視線の届かない処に姿を消すまでしつこく追って来る絡み付くようなそれを、 何故ヤツが俺に送って来るのかが分からない。 不意に振り返って「見るんじゃねえ」と言ってやろうかと思う衝動をやり過ごす。 あの時の事は誰にも言った事が無かったと思う。恐らくお師匠様にも。 草履を拾いに行かなくては、そう思いながらその日はどうしても部屋の外へ出て行く事が出来ず、 翌朝いつもより早くに起き出して廊下と、片足は地面に落ちていた草履を無事発見した。 あの日からそれ迄以上に人の気配に気を付けるようになった。 触れられる程近くにまで他人に距離を赦す事も無くなったのはあれ以降だったのかと、うっすらと思い出した。 だがそれがどうしたと言うのだ。 馴れ馴れしく触れられ「触るな」と大上段に言ってのければ大抵の相手は鼻白み高飛車な俺の言葉に一歩引いた態度を取るようになる。 それは寧ろ俺には好都合だった。 汚らしい、生暖かい他人の手に触れられる位なら「地位を嵩に着た高慢チキな坊主」と思われている方がマシだった。 湿った掌に触れられれば抑え難い程の嫌悪が沸き起こるが陰口ならば幾ら叩かれても俺に苦痛を与える事は無かったからだ。 それがあのエロ河童と来たらどうだ。 何度その手を振り払ってもハリセンでぶっ叩いても揚句銃を乱射してもしつこく折に触れ俺に手を伸ばして来る。 それだけでなくこの上鬱陶しい視線までも。 「うぜえんだよ」 苛々と煙草に火を点けながら一人ごちる。言いたい事があるならハッキリ言いやがれ。 見るな。 「あー、ヒマだーっ!」 俺を、見るな。 「なー、悟浄なんか面白え話ないのか?」 ジープに乗っていても、と言うか後部座席に悟浄のいる状態では当たり前と言えば当たり前だが張り付くような視線を常に背中に感じる。 「俺に振るなっつうの」 悟空とバカ話をしながら一体どんなツラでこちらに執拗な視線を送っているのだかは見たくもなかった。 「なー、三蔵サマなんか話してよ」 「ざけんな」 不意に呼びかけられぴくりと肩が揺れるが冷静な声で言い返した。 「ホラ、お猿ちゃんの話とかさ。寺で何かぶっ壊しちゃってアラアラ大変っつう話とかあるでショ?」 「あーっ、何で俺なんだよエロ河童っ!」 キヒヒ、とそれこそ猿のように笑いながら続けられた言葉に悟空が大声で喚き出す。 「さんぞー、絶対言っちゃダメだかんな!」 そんな事を言ったら寺で散々仏具を壊したのが事実だと認めているようなもんじゃねえかアホ猿が。 内心で呆れながらふと思った。もしかして悟浄のあの陰湿な迄の視線は、 煩い悟空が隣にいるのはもう懲り懲りだと、座席を代わってくれと言う意味合いのものなのだろうか。 その視線の意味を確かめようと思い付く侭に振り返る。 俺が振り返る事など予想もしていなかった為だろう、こちらを凝っと見ていた悟浄の瞳と真っ直ぐに視線が絡み合った。 「あ・・・、えっと、何?」 驚いたようにぽかんと口を開けた後、いつもの馬鹿げた軽口を叩く事も無く気詰まりげに悟浄が言葉を発した。 「・・・静かにしやがれ」 「何だよそんなに騒いでねーよ!」 不満そうに悟空が口を開くのを無視して視線を前に戻した。 ・・・イヤだ。 振り返った視線の先の悟浄の瞳は、あの晩、僅かな月明かりの中で見た寺の男達のような色をしていた。 見るな。そんな目で俺を見るな。 すっかり忘れていたあの日の夢を見た理由にやっと思い至る。 昼と言わず夜と言わず浴びせ掛けられる悟浄の、熱を帯びた視線が。 鳥肌立ち身震いするのを意思の力で抑え込む。 自分が、たかだかエロ河童の視線如きに動揺しているなど死んでも認めるつもりは無かった。 膚が粟立つのを抑えるのに成功した後ゆっくりと息を吸い込んで背筋を伸ばす。 途端、感じる悟浄の粘つくような視線。 背中が震えそうになるのをきつく目を閉じて堪える。 赦せない。たかが視線如きで震えるなど屈辱だ。 今度ジープを降りたらてめえの偏執狂めいた視線に気が付いていると告げてやる。 そう、決意して拳を強く握り固めた。 おまけ novel「equal in vain」に続く。 33題 |