信仰 1




飲み会で酔い潰れた同僚の女性を家で介抱した日の翌朝、 起き出してみればいつもの事だが三蔵の姿は既に家の中には無かった。
「信頼、されちゃってるのかね」
酔い潰れてると言ってもそのうち目が覚める、その時に女のヒトと俺と二人きりにしておいても構わないと三蔵は判断したと言う事だ。 肉団子の中に目鼻のめり込んだような、可愛いと言えばそう言えなくもないその人が俺のタイプではないと踏んだのだろうが。 髭を剃るべく鏡を覗き込めば前日までとはうって代わってだらしなくニヤケた顔が映り込んだ。
これもまた驚くべき事に三蔵の手によって用意されていた二人分の食事を、 申し訳なさそうに肩を縮こませる同僚と一緒に食べていつもより早い時間に職場に向かい、 入口から少し離れた所で待つ同僚の可愛いオレンジ色の自転車を誰にも見付からないうちにこっそり取って来てやり、 思ったより颯爽と走り出すのを見送った。
昌さんは今日は遅れて来ると(一度家に帰って着替えて来るそうだ)伝えて同僚達のからかいの言葉を軽く交わせばそれ以上は軽口を叩く閑も無く、 週末である翌日封切りとなる超大作映画の関連書の補充発注を山と積み上げ忙しく配達へと出掛けた。







配達の途中で通りかかった果物屋の店先で目に付いた李(すもも)を手土産に帰宅した。 三蔵は未だ帰って来ていなかったが、今日は二人分用意しても無駄にならずに済むんだよな?と内心心配しながらメシを炊く。 安くなってた魚を買って来たのでムニエル(少し前三蔵が買って来た本に作り方が載っていた)をこさえるつもりだったが、 フライパンの上でひっくり返すのを失敗したのがケチのつき始めとでも言うように身がぼろぼろと崩れ出してムカついたので炊き立ての飯と混ぜて即席炒飯にしてみた。 おかずが一品減ってしまったが思い付きにしては良く出来たのでまあ良いだろう。
天気予報の時間も終わり、大して面白くもないバラエティ番組を煙草をふかしながらダラダラと見る。 先に喰っちまおうかなあ、と思った頃になって漸く三蔵が帰宅した。 そう言えば悟空のヤツは旅の間、三蔵が食卓になかなか現れないと「腹減った!先に食っちまおうぜ」 と騒ぎたてたもんだったがわざわざ断ると言う事は、つまり一緒に食べるのが当然だと思っているのが前提だった訳だ。 メシは三蔵と一緒に食うの、なんておサルちゃんも随分可愛らしいトコロがあったもんだと思ってからそれは俺も同じかと気が付く。
一人小さく肩を揺らして笑うのに着替えを済ませた三蔵は無表情でこちらを一瞥しただけで無言で椅子を引いた。 一緒に喰おうと待っていたもののこんな暑い時期は三蔵は殆どメシを喰わなくなる事は旅の間に知っていた。 一応食卓に着いて皿の上を箸でつつき回すと言う行儀の悪い事を延々と繰り返した揚句小鳥が啄む程度の量を口にしただけで席を立つ。 旅の間はそれでも大食らい猿が三蔵の分まで(っつうか気を抜いてると俺の分までも) 喰ってたので飯が余ると言う事が無かった為それ程気にならなかったが、 こうして自分で飯の支度をするようになってみると三蔵の喰う量が明らかに減っているのが目で分かってしまう。 猿のように大食らいなのも困りモンだが、 かといってダイエット中のオンナノコかよっつう程ぽっちりとしか喰わないのには旅の間食料調達を一手に担っていた八戒も相当やきもきしたんだろうな、 と今になってみると分かる。
キッチンを出て居間のソファで寛いでいる三蔵に冷やしておいた李を皮を剥いて皿に載せて出してやると、 ちらと横目で見た後手が伸ばされた。 白い指先を染めながら赤い果汁が滴るのに濡れ布巾を渡してやりながら自分も皿の上の果実を摘み上げて口に運ぶ。 甘い香りと共に大した抵抗も無く前歯で囓り取られて行く柔らかい果肉の感触を楽しむ。
「今年は暑いから果物の出荷が早いんだって」
「そうか」
「庭になんか植えようか。喰えるもんが成るヤツ」
現在は手入れもしていないのでセイタカアワダチソウだか何だかの放っておくと勝手に生えてくる背の高い草に浸食されてはいるが、 狭いながらも庭があるのだ一応は。
「好きにしろ」
言いながら三蔵が二つ目の李を手にする。
「でも長安て夏暑いけど冬滅茶苦茶寒いし、どういうモンが良いかな。それとも毎年植えるヤツにしようか、瓜とか」
本当の所畑仕事なんざ嗜んだ事は無いのでそんな面倒くさい事自分ではやらないだろうと思いながら、 それでも万が一植えるとしたら手の掛からない樹木の方が良いなどとのんびり考えてみたりする。
「そんなでかいモンがゴロゴロ成ったら喰いきれんだろうが」
「そしたらお猿ちゃんにでも喰って貰えば良いじゃん」
「・・・そう言えば八戒が明日メシを喰いに来いと言っていた」
三蔵がふと思い出したように顔を上げて告げた。
「へえ?」
「明日は仕事だからてめえは先に行ってろ」
「仕事?」
「法会だ」
「ふうん?」
それきりその話題に興味を無くしたかのように三蔵が三つ目の李に手を伸ばすのを見て、 明日八戒の家に行く時も何か果物を手土産にしてやろうかと考える。
宗教的な意味を持つ行事に於いては日付や暦が重要な意味を持つものであり、 ただ人を集めると、その為だけに週末に開催日をずらされる事は異例であるとその時俺は知らなかった。 否、宗教的な事に造詣の深くない俺には開催日がわざわざ週末に変更されたと言う事さえ分からなかった。 だから当然三蔵の舌打ちも仕事が面倒臭いと、その程度の意味だろうと思っていた。
寝台にその身を組み敷いて、耳朶を舐め上げても尚三蔵が抵抗を止めずハリセンを連打して徹底的に拒む姿勢を見せた時も、 翌日の仕事に支障があるからだろうと、その程度にしか思っていなかった。









法会の開催と言うのはどうやって長安城内の住民に知らされているものなのだろう。
長安最大級の規模である慶雲院の大講堂に芋洗いのようにぎっしり収まった人々を見て長い溜息を吐く。
新聞の折り込みチラシ?街中の張り紙?檀家へは特別に報されるのだろうか?
来いと言われた訳ではなかったが気紛れを起こし正門への長蛇の列へと大人しく並んで、 常と違い案内された以外の道へと逸れる事も赦されぬ程びっしりと通路に立ち並んだ坊主共の険しい視線に辟易しながら大講堂へと足を踏み入れた。 そこで漸く見知った三蔵付きの小坊主を発見し、さも親しげに片手を挙げて挨拶なんかしながら行列から離れて小坊主へと向かって行き、 一度腰を降ろしたら法会が終わる迄抜け出す事も適わないであろうぎゅう詰めの席に座る事を体良く免れて壁に凭れ掛かった。 いやあ、凄え人出だな、なんて言いながら小さく息を吐き出し胸の前で腕を組む。
人いきれの中で尚その存在感を喪わない程に炊き込められた香の香り。坊主共の着物が立てる高い衣擦れの音。 連枝台の上でゆらめく数多くの蝋燭の炎。囁くような然し抑えきれない人々の高く低く押し寄せるように聞こえて来る声の波。 息苦しさに顔を上げれば壁一面に描かれた色鮮やかな大仏だの飛天だのの図。 壇上の細い脚の高台には花びらを折り込まれ手の平サイズにまで小さく畳まれた蓮の花が零れんばかりに盛られている。
日常と切り離された其の空間は然し三蔵にとっては日常なのだと不思議に思いながらポケットに手を突っ込み、 取り出す訳にはいかない煙草を指先で弄くる。

低くどよめきが起こるのに前方に顔を向ければ一段高くなった上座に三蔵が姿を表す所だった。 桃源郷を救った貴人の姿に講堂に座する幾人かは早くも目頭を押さえ或いは鼻を啜り上げている。 三蔵はいつもの白い法衣では無く紫色の、遠目に見ても法衣より光沢のあると分かる着物を身に纏っていた。 今は経文を肩に掛けてはいない。代わりに肩に斜めに複雑な刺繍が縁を彩る幅の広い布が掛けられている。 肩布を結んでいる太い織糸にはアメジストよりも尚淡いながらも紫色の貴石が飾り付けられている。 黄金の髪の色を薄く遮断する、光の加減によって輝き具合を変える紗布と共に頭頂に頂く金冠。
三蔵法師の正装ではないが、視覚的効果を充分計算された正装よりも豪奢な姿に、 大講堂を埋め尽くす人間が思わず身を二つに折って拝頭する。
平伏す人々を何の感情も無い目で見渡し、否、一堂を眺め渡す事さえしない侭低い然し良く通る声で三蔵の読経が始まった。 三蔵のものとは色の違う僧衣を身に纏い居並ぶ坊主共の唱和する矢張り低い声。 胸の前で手を合わせる姿勢は他の坊主共と同じなのに三蔵の姿だけが際だって神々しく見える。 重なる声に和するように講堂を埋め尽くす衆生までもがぶつぶつと小さな声で信経を唱え始める。 横目で見てみれば三蔵付きの小坊主も目を閉じて顔の前で合唱し三蔵の読経に和していた。
見渡す限り頭を上げているのは自分だけか、 そう思いながら壇上の三蔵を眺めていると一心不乱に経を唱えているとばかり思った三蔵が顔を上げた。 一瞬視線が絡み合った後三蔵は眉を顰め、再び瞼を閉じた。
大して視力の良い訳でもない三蔵が、 このだだッ広い大講堂の、三蔵から一番遠い壁際にいる俺を確実に認識して視界に留めたと確信するのは思い上がりだろうか。
カンペも無さそうなのに未だ三蔵の読経は止む事が無い。
三蔵が別段崇高な志に基づいて西へ旅した訳では無いと知らず、また夢想だにせずひたすら崇め奉る対象として三蔵を拝み上げる人々の 「念」を感じ取りながら目を閉じ──数秒の後目を開けた。






遠い道の続き。

続く



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