花満天 2




長安の街並みは高さ5メートルにも及ぶ城壁に阻まれてその城門を潜るまでは中の様子を伺い知る事は出来ない。 だが桃源郷各都市から物見遊山にやって来た富裕層、 仕入れに出掛ける商人、或いは荷車一杯に仕入れた商品を乗せ城内へと向かう者でごった返す城壁の外の賑わいを見るだけで地方都市より上京して来た者達の心は期待に弾むに違いないと断言出来る。 その雑踏の中、長安城内へ向かう人々が自分達を追い越して行ったものを物珍しそうに見送る中埃を立ててジープは進む。
三蔵が長安の城門を仰ぎ見るのは約二年振りの事だった。元々仮の居場所だと思っていたので特に懐かしいと思う事もなかったが。
ジープを降りる時他の二人に気付かれないよう小さく触れて来た悟浄の指が暖かかった。 触れたのはほんの一瞬だったががさついた大きな掌の感触に、 此の数ヶ月の間自分の中に蟠っていた凝りを解すのは自分が考える程複雑な事ではないのではないかと、三蔵はふとそう思った。







三仏神への拝謁を先に済ませていた為寺院には何らかの方法で連絡が行っていたのだろう、 寺院の門扉には僧侶達が居並んで三蔵達の帰りを待っていた。 何時から待っていたんだか知らないがご苦労な事だ、醒めた表情を一瞬浮かべた後三蔵は「お勤め用」の無表情を作った。 最後に此の門を出た時は三蔵の肩を越す程度の身長だった悟空は今や三蔵の眼の高さに届く程成長していたが黒づくめの集団のお出迎えには子供のようにげ、 と口走り一瞬足を止めた。
「永のお勤めご苦労様でございました」
胸の前で合掌した一同が禿頭を下げ唱和した後尋ねられた。
「沙悟浄様と猪八戒様はご一緒では・・・?」
「城門で別れた」
あの二人の名に『様』が付いたのを聞いたのは初めてだと思いながらもおくびにも出さず三蔵は返答した。
「左様でございますか」
そんなにあからさまにほっとする位だったら初めから尋ねなどしなければ良いのにと三蔵は思う。 寺院の僧侶共には半妖と元大罪人の二人を歓迎するだけの心の準備は約二年の歳月を経たにも関わらず未だ出来ていなかったらしい。



悟空に持たせていた天竺から持ち帰った教典を蔵経へ運び込ませてから三蔵は久し振りに足を踏み入れる私室へと進んだ。 「先ずはお部屋でお寛ぎ頂き永の旅の疲れを休めて頂かねば」と予め決めてあったかの如く宣言されたのだ。 こんな風に下にも置かない莫迦丁寧な扱いを受けたのは「三蔵法師」として此の寺に初めて足を踏み入れた時以来で、 どうやらまた自分は厄介な立場に置かれたらしいと三蔵は悟った。
部屋で休めと告げられた途端そそくさと人垣の間から出て来た小坊主は驚くべき事に旅に出る前三蔵の側付きだった者が相も変わらず勤めていた。 二年前よりは随分背が伸びて目線が嘗てとは違う高さになった小坊主──彩徳が頬を紅潮させて手を伸ばして来たので何事かと思ったが自分が手にしている荷物を渡せと言う意味だと数秒後に理解した。
「荷物位自分で持てよ」とはもう言われないのだなと思いながら三蔵は僅かばかりの着替えと予備の弾丸と、それから寺の者には渡さなかった天竺から持ち帰った教典(読み掛けだったからだ)の入った荷物を渡した。 自分では縦の物を横にもせず黙って身の回りを世話されている事が此処での自分の役割だった。 其れは旅に出る前からの決まり事だったが下僕共と違い文句の一つも言わず荷物を持ってくれると言うのなら結構な事だ。 弾丸を買い足しに行くのは流石に他人に任せた事は無かったが(煙草は買いに行けと言うと逆に説教されるのが面倒で自分で買っていた) それ以外の事は寺の奴らの思惑通りにしておけば波風は立たない。 この程度の事で古株の煩さ方が懐柔出来るのならムキになる必要は無い、それが此の寺院に在籍している間の処世術だった。
二年と言う歳月を経た後だと言うのにあっさりとパズルのピースのように枠組みに嵌め込まれて行く自分の姿に悟空は何を言うでもなかったがあっと言う間に人垣に取り込まれ自分と離れてしまった三蔵を、 悟空が物も言わぬ侭ただ眼を見開いて見ているのを三蔵は知っていた。
帰りしな幾つか天竺の寺院に立ち寄り入手した教典は結構な量になっていたので悟空に持たせて寺に持ち込んだ以外の残りはジープに積み込んだ侭だった。 座席が狭いと散々文句を言っていた河童と悟空には何も思う処は無いが長い帰路をただでさえ男4人乗せている処に更に重たい物を積み込んでしまいジープには少し悪い事をした、 考えながら扉を開く。否、扉は自分の手で触れる必要もなかった。 三蔵の後ろを歩いていた彩徳が扉の前に来た時歩を早めて先に立ち恭しく扉を開いたからだ。 扉の前で重々しく立ち止まったりせず自分で扉を開けてしまう三蔵の為、 殆ど走る程の速さで先回りするタイミングを彩徳は忘れてはいなかった。

「お茶をお持ちしましょうか」と尋ねる彩徳にどうせそのうち悟空が来るだろうとは思ったがそれでも三蔵が自分から二人分の茶を頼む事は無かった。 彩徳が厨房へ取って返した後三蔵は一人私室を見渡した後「宿の一人部屋程度の大きさ」だとその部屋の広さを認識した。 長安随一の規模を誇る大寺院の最高責任者の私室にしては狭いそれ。部屋が広かろうが狭かろうが気にした事はなかったが。
留守の間も恐らく毎日彩徳が掃除をしていたのだろうな、と思いながら三蔵は固い寝台に腰を下ろす。 改めて見回してみても私物らしい私物の殆ど無い部屋は宿の部屋と大差なく、元は自分の使っていた部屋だと思える程の親しみは沸かなかった。
そもそも此処に戻って来るつもりがあったのかも我ながら疑問だ。

窓を大きく開いて寝台から半ば身を乗り出すようにして庭を眺めると暖かな春の風が鼻先を掠めた。 この手入れの行き届いた庭が一瞥出来る事が狭いながらもこの部屋が三蔵に宛われている所以であろう。
未だ牡丹の時期には少し早いが膨らみかけた子供の握り拳程の大きさのある柔らかそうな蕾が室内からも看て取れる。 長安に於いて花を愛でると言う事は風雅の証であり、 「牡丹妖艶人心を乱し一国狂うが如く金を惜しまず」と歌に言う様に良品の美しい種を家財を擲ってでも競い合うように買い入れ花の時期には客人をこぞって招き入れ咲き誇る色とりどりの花を自慢するのが上流階級の人間の習いだった。 そんな莫迦げた風尚に付き合った訳でも無いだろうが慶雲院にも牡丹園があり、 花の時期には市井の民が寺院に大挙して押し掛けて来る。 内苑にある三蔵の私室の辺り迄は流石に一般衆生が入って来る事は無かったがさんざめいた空気は否が応でも寺院内をも何か落ち着かない気分にさせ修行中の身である僧侶達も何処となくそぞろに浮ついてしまうのがこの時期の常だった。
例年修行僧共と一緒に花に浮かれ立つような心は持ち合わせていなかったが、 牡丹の膨らみを見て、漸く長安に帰って来たのだと三蔵は得心した。





風に乗って何処か遠くの庭園から杏花の香りが届く。
この穏やかな静寂が数秒後には悟空によってぶち壊されるであろう事を喧しい足音が耳に届くより前に三蔵は知っていた。






戻る続く



novel