花満天 4




長い間長安を遠く離れ旅に出ていた事が嘘のように当たり前に日常が戻って来た。 否、表面的には何も変わりはしなかったが矢張り長期間の不在は寺院内での役割分担に微妙に変化を落としていた。



一応遠慮がちにではあったが日が昇る前に勤行の時間だと起こされたのでノロノロと布団から這い出した。 妙に馴染みのある天井が視界に入るとぼんやりと眺めた後昨日から自分は長安に戻って来ていたのだったと思い出した。
何て人使いの荒い奴らだ信じらんねえ旅の疲れをゆっくり取れとか言ったのはどいつだと思うが寝惚けた脳では適切な罵り文句も浮かばない。 未だ醒めきっていない頭で何も考えず脚が覚えている通りに回廊を歩いている時自分の足元が固い音を立てているのに気付いて少し眼が覚めた。 旅に出ていた間に履くのが習慣となったブーツに無意識のうちに足を突っ込んで来てしまっていた。
それ迄は私服を身に纏っている時程度しか靴を履く事が無かったので突っ掛けて履ける草履と違い一々身を屈め両手を使わないと履く事の出来ないブーツをなんて面倒なものだと思っていた筈なのに慣れるものだと他人事のように思うが態々部屋へ戻って草履へ履き替えて来るのが面倒だったのでその侭進む。 そもそも草履の替えがあったかさえ覚えていない。 ブーツの踵のたてるカツコツと謂う固い物音に不審そうに修行僧達が音の出処を探して視線を彷徨わせているのを気にせず脇をすり抜けて上座へ向かう。 講堂内を歩いているのは既に自分一人だったので誰がその物音を立てているかは余程の阿呆でもない限り察しが付くだろう。 声に出してどうこう言われた訳ではないが空気がざわついている。
うぜえ。
言いたい事があるなら言えば良いだろうと通り過ぎ様既に板の間に腰を降ろしている修行僧共をちらと見下ろせば途端に講堂内が静まり返った。
自分の不在の間は僧正が上座に座っていたのだろう、空けられていた場所は二人分だった。 自分がいない間それでやっていたのだったら今更わざわざ自分を上座に据える必要は無いだろうがと思ったが下手に口をきけば「上座」 が自分一人では無い事を不満に思っていると取られかねないので黙って腰を下ろした。 経を詠むのに上座も下座もあるかくだらねえと胸中で呟きながら胸の前で両掌を合わせ口に出しては経を唱えた。



勤行の後朝飯を済ませてから執務室に行くと机の上には何の書類も載っていなかった。考えてみれば当たり前の事だ。 この部屋に脚を踏み入れるのは二年振りだと言うのに今もって未決済の書類が卓上に載っていたら怖い。 つうか万が一書類を手つかずで放置するようなバカがいたら殺す。
久し振りに足を踏み入れた執務室を懐かしいだのと思う感慨も湧かず無駄に長居する事も無く踵を返す。 きっと此処に居ても決済済みの見る必要も無い書類が回って来てチェックする必要も無いそれに無理矢理目を通した上で誰かの(恐らく僧正の) 捺印の上だか横だかとにかく空いてるスペースに朱印を押すだけの事になるだろう。
「三蔵様どちらへ?」
「経蔵だ。用があったら呼べ」
彩徳が呼ぶのにそう返事して執務室を後にした。 経蔵に着いてから彩徳に草履を探させておけば良かったと気が付いた。



その侭昼迄経蔵で教典を読んで過ごし昼飯の後僧正に寺に持ち込んだ以外にも天竺の教典があるのだと告げた。
「では早速人を遣って取りに行かせましょう」
と言われたのを押し留めて後で自分で取りに行くと言ってしまったのかは何故だか自分でも分からなかった。 それでもバカ力の悟空が抱えて運び入れた教典は結構な量だったのでそれきり結局一度も脚を運んでいない悟浄の家に運び込まれた教典を取りに行かない事に関しては誰も何も言って来る事はなかった。





執務を再開した翌日からは懸念した通り必要もない仕事を無理矢理捻出したとしか思えない書類仕事がばらばらとやって来るようになった。 どう見ても俺の決済が必要とは思えないもの或いは既に僧正に依って決済済みなもの。 それでも一日中執務室に張り付いている必要が無い程度の分量の仕事しか来ない。
否、「説法のお願い」とやらは以前に比べ格段に増えた。
用も無いのに机の前にぼけっと座ってる趣味は無いのだが旅の帰路の間は二人部屋が取れた時は矢鱈と俺と同室になりたがった悟空は寺に帰ってからは何故かあまり俺に纏わり付いて来なくなった。 旅に出る前は人が忙しい時でも無意味に邪魔をしてきやがった癖にこっちが手が空いてる時には寄り付きもしねえ。 少し面白くないと思いながら経蔵に籠もって教典を読んでいるとくだらない用事で呼び付けられる。 何だか面白くない事が日々増えてゆく。
そうして呼び立てられ何事かと思えば大抵は会った事も無い奴らとの面談だ。 俺に仕事を回さないのはこういう奴らとの「ご挨拶」の場を設ける為なのかとも思う。 他人事だと思って城内の有力者だか何だか知らないが何でもかんでも受けるんじゃねえ少しは断れクソハゲ共が。 まだそいつらが自分一人で感極まって地べたに頭を擦り付けているだけなら構わない。 だが中には足元に縋り付いて来たり「これからもよしなに」とか何とか言いながら脂ぎった手で俺の手を握り締める奴らがいて気色悪い。
勝手に触んなこれからどころか次なんぞねえ。死ね。っつうか殺す。
時々反射的に横っツラを張り飛ばしそうになると彩徳が「さ、そろそろお時間でございます」と慌てて間に割って入って来る。 金持ち連中が勝手に俺に触るのは良くても俺がそいつらを殴るのは駄目だと言うのはどういう了見だと思う。
兎に角こんな調子で実務では無く信者や要人との面会だの広報的或いは政治的な意味合いの雑務が増えて鬱陶しい事この上無い。
旅に出る前だって自分のしているような書類仕事は自分でなければ立ちゆかないと言う性質のものではないと思っていたがどうやら自分が此処に居ると皆何でも良いから俺に働かせなくてはならないと思い込んでしまうらしかった。 書類にしろ信者との面会にしろ。いっそ自分が机周りに腰を落ち着けず書類仕事を一切放棄すれば良いのかも知れない。 そう言えば金山寺に居た時分にはお師匠様が書類仕事なんぞしている姿はついぞお目に掛かった事が無かったものだが。
苛々と書類に触れていた指が止まる。
本当は俺が実務に携わらなくとも寺は立ちゆくものなのだ。
自分で寺を取り仕切ると一方的に申し出たあの時とはもう違う。
自分の身代わりに死んで行った待覚僧正へのせめてもの責任の取り方だと思っていたが今や自分がこの寺に居る事こそが混乱を招いているのではないか。




コツコツと小さな音を耳が捉え思考が中断される。
顔を上げてみると窓硝子にへばりつくように厭になる程見慣れた赤アタマが立っていた。
牡丹観に訪った一般衆生に紛れて寺院にやって来たのだと何が面白いのか笑いながら告げた悟浄をこっそり私室に忍び入らせるとすぐさま戸口に鍵を掛けて窓もカーテンも閉め切った。







忙しなく抱き合った後「じゃあな」と最後に小さく唇を啄んでから悟浄はひらりと窓から出て行った。 悟浄はすぐに何でもないように起き上がって涼しい顔で衣服を身に付けていたが自分の身体は未だ熱く火照った侭だ。 真っ昼間っからしかも寺の中で何をやってるんだかとひたひたと両手で頬を包み込んで何とか平素の表情を取り戻そうとする。
最低の気分だった。
人目を盗んで悟浄を私室に招き入れた自分にも声を必死に殺しながらも悟浄の体に脚を絡み付かせていた自分にも行為に馴れて悟浄に教え込まれた通りに反応する自分自身にも嫌悪感が起こる。
開きっ放しの窓から悟浄が去って行った庭を眺める。 この場所だと自分と側付きの小坊主程度しか正面きって看る事は出来ないのに丹精された大輪の牡丹の咲く庭。 悟浄はこの牡丹に気が付いただろうか?

本当は牡丹の花は好きでは無い。
大仰な程の大輪の花は自己主張が強過ぎる。 散りゆく花びらの一枚一枚までもが大きくて無理矢理人の視線を奪おうとしているかの様で押しつけがましい。 散る時も一気に潔く散るのでは無くほろほろと一枚ずつ、 まだ死にたくないと必死に本体にしがみついてしがみつき切れなくなるまで落っこちそうになりながら張り付いている様に苛々していっそ頸ごと引き千切ってやりたくなる。

無実の花を無惨に引き千切りたくなるこの凶悪な感情は何だろうかと考えた時、 悟浄に天竺からの教典を引き取りに行くと告げ忘れた事を思い出した。






戻る続く



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