花満天 6




長安へ戻ってから悟浄は二度ばかり寺にやって来た。
二度目に来た時には庭の牡丹は疾うに散っていて、 そしてあれだけ街中至る処に咲いていた春の花は姿を潜め噎せ返る程濃厚に漂っていた甘ったるい香りは初夏の青々しい緑色の葉の香りへと変わっていた。 私室の窓から見える庭に植えてあった牡丹の根本に今は早朝のみしか花を開かない紫色の名も知らぬ花がちんまりと咲いていた。 あの大輪の牡丹の後に咲くにしてはあまりにも控え目な、下午を待たず花弁を閉じてしまう花を、 どういった対比で植えたものなのか毎朝眺めてはみてもその意図は未だ図りかねていた。
そうして花が巡る間にも悟空は何度か悟浄の家に行っていたらしいが俺が自分から悟浄の処に赴く事は無かった。 旅に出る前だったら悟空が出掛けたい時は一緒に行こうとしつこく強請られたものだし、 或いは俺が出掛ける時には一緒に附いて行きたがったものだが 「もうガキじゃねえんだからてめえが出掛けたい時はてめえの好きにしろ」と告げたらぱったり出掛ける前に俺を誘いに来なくなった。 現金なヤツだ。
尤も誘われて断るのが面倒くさいので大して仕事も無いのに忙しいフリをしている訳だから俺の目論見は成功していると言って良いのだろう。 正直あまり悟浄の家に行くのは気が進まないのでサルが出掛けたそうにしている時は気が付かない振りをして席を立つようにしていた。 あの家は寺の連中の目を盗んで出掛けて言って帰って来るには、 用も無いのに「ついでに寄っただけだ」などと言う事はあり得ない程に遠い。 ちょっとしたマラソン程度の距離を短い足を忙しく回転させて走って往復する体力バカなんざ悟空だけで充分だ。
だから、悟浄が来なくとも当たり前の事だと思う。
八戒だったらジープがいるから距離も苦にならないのだろう、 実際西への旅に出る前はいつも八戒と悟浄は二人揃ってやって来る事が殆どだった。 そして「足」があってさえもあの二人が寺にやって来る事は多くても精々が月に一、二度の事だった。
別にどうと言う事は無い。
旅に出る前と同じに戻っただけだ。
・・・いや、もしかしたら悟浄には新しい女でも出来たのかも知れない。それこそ旅に出る前と同じように。
遠いから面倒臭いと悟浄の家に出向く気も起きない自分と同様、 悟浄の方でも遠いだけでなくこんな抹香臭い場所に出向く気など起きる筈も無いだろう。
悟浄と身体の関係を持つ迄には実に三年以上の月日を要した訳だが終わりは呆気ないもんだなと何処か他人事のように思う。 終わりにするには殊更に言葉も交わす必要も無く会う必要も無いのだと、 考えた事が無かった訳ではなかったがその呆気のなさに少し拍子抜けした。
悟浄に会う為だけに用も無いのに出掛ける気にも、 出掛ける為の用事を作り出す気にもならなかった自分には、 こんな終わり方が似つかわしいのだろうとだらしなく窓枠に身を預けて牡丹の散り終わった後の庭を見遣った。







相変わらず碌な仕事も無いのを良い事に逃げるように入り浸っている蔵経の床はひやりと冷たくて気持ちが良い。 所用で呼びに来られる時以外滅多に人の来ない此処は自分には便利な逃げ場所だった。
然し自分と違い寺院内に逃げ場の無い悟空は此処の処よく寺を留守にしている。
旅から戻った後、悟空は以前にも増して寺に居場所が無くなった。 「得体の知れないイキモノ」の分際で三蔵法師の旅の供を無事に勤め上げたからと良い気になるな、と言う訳だ。 悟空の代わりにその陰口を叩くしか脳のないような軟弱坊主どもが、 例え百人附いて来ていたとしても露程も役に立ちはしなかった事を知らず、知ろうとせず認めもしない救い難い愚者共。 その愚かな陰口を悟空は気にも止めていないようだったが、 一度寺以外の世界を知った悟空をこんな陰険な寺に留めて置く事は嘗て悟空が500年もの間閉じ込められていた岩牢に押し留めている事と大差ないのではないかと言う気がする。

「三蔵様、こちらにいらっしゃいますか?」
蔵経の入り口から呼ぶ声に思考が遮られる。
「・・・何だ」
「法会の打ち合わせでございます」
「分かった」
何が分かったなのか、内心で呟きながらも裾の埃を払って戸口に向かい歩き出す。 この法会にしたって自分のいない間は誰かしらが講師(こうじ)を司め、滞りなく行われていた筈なのだ。 尤も、今回の法会は俺が西から戻って初めての大掛かりなもので、 「異変から桃源郷を救った」事になっている俺の身柄は一般衆生から布施を巻き上げるにはうってつけのお題目なのだと言う事は分かっていた。 本当は俺はただの象徴、お飾りとされる事が好きではない。 然し実務を離れてしまった以上俺がこの寺で出来る事と言ったら人寄せのお飾り位のものだろう。



手順は過去の倣いに従い大体寺の者が既に決めてある、ただの確認の為だけに催された打ち合わせを終え私室に戻ると昼も随分回った時間になっていた。 昼を食い損ねたなとその時になって漸く気が付いた。昼飯時に一人蔵経に籠もっていたのは自分の好きでした事ではあっだが。
調度良いから抜け出して街で饅頭でも買って来るか、あの行列の出来る店はこんな時間じゃ売り切れてんだろうなと悟空のような事を考えていると小さく窓を叩く音がした。
「・・・てめえは何でいつも窓から来やがる」
もう来ないのかと思った、と言う台詞を呑み込み文句を言いながらそれでも自分はこのバカの為に窓を開けてしまうのだ。 久し振りに見る赤い髪の男の為に、あまり人の来ない辺りだと言うのに一応周囲を伺ってしまう。
「いつものトコにいないんだもん。探しちゃった」
そう言いながら悟浄はその場に突っ立った侭だった。
「あのさ、時間ある?」
「てめえがそんなしおらしい事尋ねるなんざ不気味だな」
問いには答えず思った侭を口にする。人の都合など今迄気にした事も無かったクセに何をいきなり。
「あのね・・・まあいーや。新しい家、見に来ない?」
訝しんでいると口ごもりながら悟浄は言葉を続けた。
「・・・何?」
「長安にね、引っ越したんだよ。で、ここん処バタバタしててさ・・・」
まるで言い聞かせるような口調は普段の余裕ぶった態度に似つかわしくなく。 思い出したようにいつも通りに振る舞ってみせようとするのが却ってちぐはぐな感じだった。
「昼飯を奢るなら見に行ってやっても良い」
「はあ?何言ってんだ・・・」
煙草を銜えてから手を止めて悟浄がライターの炎から視線を離してこちらを伺う。
「・・・あんた飯食ってないだけじゃなくあんま寝てないだろ。眼の下くまくまちゃん」
言いながら悟浄は小さく笑い片方の手で自分の目の下を指さす。
「くまくま・・・?」
「くまくまちゃん。可愛いデショ」
「くだらん」
「いーのいーの。じゃ行こか」
そう言って勝手知ったるとばかりに先に背を向けて歩き出すのに、扉からではなく窓枠を乗り越えて続いた。





売り切れているかも知れない饅頭屋の代わりにいつも列の出来ている揚最中屋に行き河童を並ばせると言う事も考えたが思い直し、 通りかかった刀削麺屋に入る事にした。
「三蔵がこんな店知ってるなんて意外」
翡翠麺を啜りながら悟浄が言う。
「悟空の知り合いの店だ」
俺と違い悟空は誰とでもすぐ親しくなる。 長安を遠く離れた片田舎でもあるならともかく三蔵法師の格好で街中で飯を食うのは周りから無用に注目されて落ち着かないのだが悟空の顔見知りであるこの店の主は、 旅に出る前に悟空と一緒に数度脚を運んだだけの俺の事も覚えていてそれとなく他の客の目に付きにくい奥の席に案内してくれた。 尤も猿のヤツが街で飯を食う金は元々俺が持たせてやったものだから悟空が飲み食いした金は俺が払ったと言っても良いだろう。 つまり仕切りのように置かれているこの透かし彫りの衝立をさほど有り難がる必要は無いのかも知れない。
「蝦雲呑一つ分けて」
言いながら返答を待たず既に箸を俺の丼の上に持って来ている悟浄からは先程迄のぎこちなさは消えている。
「八戒はどうした」
いつも悟空と飯の取り合いをしているのを見ては「バカ二人」と思っていたものだが悟空がいないと俺の皿が狙われる事になるのか・・・ と思ったが雲呑の量が多過ぎると思っていた処なので制止はしないでおく。
「あ?」
「一緒じゃないのか」
「その事だけどさ、八戒も長安に越したんだ。うわ、すっげ蝦プリプリ」
「八戒も一緒か?」
喰うか喋るかどっちかにしやがれこのバ河童。
「いや、八戒は違うトコに住む事にした」
「遂に見捨てられたか」
「何でそゆ事言うの。八戒は寺の東の方で仕事見付けるってよ」
悟浄の後を附いて歩いて行く先は、長安の中央辺りに位置する慶雲院から見ると西の方面、繁華街の方向だった。 その逆、長安の東側は役所も多い官僚街だ。確か八戒は人間だった頃は学校の教師をしていたと嘗て資料で読んだ憶えがある。
「塾講の職に就くってさ」
「そうか」
旅に出る前の八戒は悟浄の家に住みながら特に手に職を持つ事もなく、 時折俺経由で三仏神からの依頼を片付けたり片手間のアルバイトのようなものを請け負う事はあっても定職に就く事はしなかった。 どんな職業でもそこそこうまくやっていけるであろうと思う程度には何事にも如才なく器用だったにも関わらず。 それが今、悟浄の家を出て仕事を見付けるのだと言う。
あの旅で、あの旅を終えて八戒の中の何かが変わったのだろうと安易に推測するのは容易い事だが。
「・・・・・・」
俺は、どうだろう。
俺は何か変わったのだろうか。
「三蔵?早く喰わないと伸びちまうぜ」
既に空に近い碗の中を貧乏くさく箸でつつき回しながら悟浄が言う。 喰わねえなら俺が貰う、と言わないだけ悟空よりはマシか。否もしかして実は今まさに狙っているのかも知れない。
「煩え、せっつくな。冷めるのを待ってんだよ」
てめえにやるつもりは無いと一応牽制しておく。
「なあ、もしかしてあんたってさ・・・」
「なんだ」
「猫舌?」
「・・・・・・」
「そうだよな?」
「・・・・・・」
「以前(まえ)っからそうなんじゃないかと思ってたんだけどさ」
「だったらどうした」
しつこい河童を無視するのも面倒くさくなったので肯定と取れる言葉を返す。 本来であれば無視と言う手段は労力を費やす事の無いラクな方法である筈なのだがこの河童は返事をする迄いつもこうしてしつこく話し掛けてくるので無視し続けるには相当の忍耐が必要とされる。
「いいや、あんた意外と可愛いとこあんなと思って」
「ケッ」
何をぬかしてやがるアホ河童。
河童の寝言には耳を貸さず伸びた麺を箸で掬い上げる事にする。






戻る続く

伸びた麺が好きな訳じゃないんです猫舌です。



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