花謝花飛 5
西京とも呼ばれる長安の街に辿り着く時が日一日と近付いて来る。
往路に自分達が立ち寄ったが故に妖怪達の襲撃に遭った街を避けて通る為 ──街の者の顔を見るのが忍びないと言う人道的な理由では無く俺達の事を覚えている者が騒ぎだてしないとも限らないので単に面倒事を避ける為だ──最短距離を進んでいた嘗てのルートとは違う道を選び進む。 要するに遠回りをしている訳だがそれでもジープが平穏無事に走行し続ける限り刻一刻と長安が近くなる。
最後には長安へ続く街道に合流し悟浄と八戒の住んでいた咸陽県を通る事になるだろう。 街の入口か或いは旅に出る事になったあの日悟浄の家へ向かう途中に出向く筈だった当の本人達に行き会った長安郊外の高台辺りか とにかくその辺りで別れる事を提案すると「ここから長安まで徒歩だと半日も掛かるじゃないですか」と八戒が言い、 自分と悟空は結局長安迄ジープで送り届けられる事になるだろう事は今から容易に想像が付く。
咸陽から先へ進み渭水を渡り高さ5m程の城壁沿いを走り城門へと辿り着き、洞門を通り抜ければいよいよそこが長安だ。
確か長安を出た頃は春色未だ浅い時季で百花繚乱の呼び声の高い街路樹は色とりどりの花を咲かせてはおらず埃を上げるばかりの黄色い土を踏みしめて荷物少なに振り返る事も無く去ったように記憶している。
恐らく長安に着く頃には花の盛りの時期で立て続けに咲く杏花か梨花か桃花か、或いは海棠か木蘭か何れの花の時季となるかは流石に今からは計り知れないが、 ともかく多くの市井の民が花見にかこつけて街に誘い出ている事だろう。 浮かれ騒ぐ民衆達のさざめきが夜遅く迄止む事の無い時季。 久しく見ることの無かった数十万もの人間の群れる様を思い描き気が滅入る。

ふと、旅に出た日を今更思い出す自分を不思議に思う。
10年以上も昔、金山寺を降りた日の事は覚えている。覚えてはいるがその事をわざわざ思い出したりする事は無かった。 下山の切っ掛けとなった一件もその後起こった事共も決して自分から好んで思い起こして傷口を抉るような真似をするのが楽しいものでは無かったから。

長安に戻る日の事を今から考えている自分がいる事を不思議に思う。
帰る日を待ち焦がれる程長安と言う街への思い入れがある訳でも顔を見たいヤツが居る訳でも無い。 花を待つ人々のように心騒ぎ浮かれている訳でも無いのに何か気に掛かっているのだろうか。
すっかり癖になったジープの車体に片肘を乗せ頬杖を付く姿勢でサイドミラーを見るとはなしに見るとガタガタと揺れるジープの後部座席では長旅の間に悪路の振動すら心地良く感じるようになったらしい悟空と悟浄が並んでぐうぐう眠っていた。
どうしてサルの奴は寝る時間抜けな感じに口をぽかんと開けるのだろうかとミラーに映る後部座席に視線を流す。
「三蔵も眠かったら寝ていて良いですよ」
「いや・・・」
運転席から八戒が声を掛けて来るが八戒に気を遣って起きていた訳ではなく眠くないだけなので否定の返事を口にする。
「悟空は随分大人っぽくなりましたよね」
「そうか?」
八戒がちらりと顔をこちらに向けて話し掛けて来る。 滅多に人に出会う事も無い道行きだがそれでもハンドルを握っているヤツが横を向くと反射的に八戒の代わりに進行方向をしかと見てしまう。 これもこの旅の間に身に付いた習慣だ。
「ええ。以前は寝顔なんか特に子供子供してましたよ」
「そうか」
八戒は既にハンドルの先に視線を戻していたが尚も前を向いた侭答える。
「背も伸びたし」
ジープのぶ厚いタイヤが石ころを踏み付けたらしくがくんと車体が傾ぐがミラーの中の後部座席の二人が目を覚ます事は無かった。
「そうだな」
「いい天気ですね」
「・・・そうだな」
遮る物もなく東に大きく広がる空が厭になる程青い。









寺に居た時分のような規則正しい生活を送らなくても良くなって久しいと言うのに未だに自分は夜明け前に目が覚める事が多い。
こうして二人で一つの寝台で眠る時眠りに落ちるのは大体自分の方が悟浄よりも早いが起き出すのは悟浄の方が遅い。 昼間散々寝ていたくせに何でこうもよく眠れるんだか、と半ば呆れるが旅に出る前の悟浄は昼に寝て夜起きるという昼夜逆転生活を送っていたと言うから普通の人間とは逆に明るくなると眠くなるのかも知れない。 身に染みついた習慣を今以て捨て切れない自分と同じように。
まだ日が昇る前らしく仄明るいとも薄暗いともどちらとも付かない室内ではたと眠りから醒めた。 真冬のこの時期の早朝の空気は冷たくて深呼吸すると気道と肺が冷える。もぞもぞとシーツを顔まで引っ張り上げて潜り込み柔らかい毛布からはみ出している悟浄の長い髪に指で触れてみれば冷え切っていた。 太陽が昇る前でも白々と空が明るくなり始める夏と違い、 日が昇る迄は晴れるのか曇りなのかも判らない程薄暗い冬の室内では悟浄の赤い髪も昏く沈んだ臙脂色に見える。
その冷たい髪を指先で弄んでみても悟浄が当分の間起きる事が無いのはいつもの事だ。
こうして目を閉じていれば悟浄の顔立ちは男らしくて割に端正な方だろう。 起きている間は目元も口元もだらしなく緩みきっているのでよくよく眺めた上余程好意的に捉えてやらない限りただのアホ面に見えるが。 いや、初めて会った頃は時々空々しい眼をする事もあったな、と思い出す。 「根暗赤毛」なんて心中で呼んでいたのは何時頃迄だったか。 へらへらとした外見で実は根暗で一見突き放したような物の言い方をする癖に本当は面倒見が良くて人一倍お節介で、 なんて分かり易過ぎる。あまりにも見た目通りだったので一目で興味を無くした。だから名前も覚えなかった。 なのに八戒のヤツがこいつの家に居を定めるわ悟空は一度で名前を覚えていたと知るわで仕方なしに記憶したのだ、この男の名を。
ほ、と小さく溜息を吐きながら何とはなしに瞼を上げると部屋の反対側の使用済みと言った風情でシーツのぐちゃぐちゃに乱れた侭放置された寝台が視界に入る。 一つのベッドを二人がかりで思い切り乱した後、清潔な方の寝台に二人して入るのも (河童は乱れたベッドで眠るのは気にならないようだが俺が厭だ)殆ど習慣のようになった、 と思うと何故か胸が痛んだ気がしたが恐らく冷たい空気に肺が悲鳴を上げているのだろう。 ごそごそと自分よりも体温の高い男の方へ僅かに擦り寄るが眼が覚めきってしまっていて二度寝は出来そうになかった。
仕方なしに隣で眠る男の顔を見ながらつらつらと考え事をする。 天竺に滞在していた時自分が長安に戻ったらもっと寺に近い処に居住を移すと告げられた、この男に。 この男、莫迦だ莫迦だと思っていたが其処まで莫迦だとは思わなかった。
この旅の間こそ自分達は四六時中顔を付き合わせてはいるが自分が寺に戻ったら会う時間など無くなるに決まっている。 居所が近いか近くないかが重要な訳では無い、近かろうがなんだろうがこいつだって用も無いのにそうそう寺まで来る気にもならないだろうし自分だって用も無いのにそうそう寺の外へ出掛ける訳にもいかない。 自分はそんな形式をあまり守ってはいないものの外へ出るのには一応「理由」が必要なのだあの寺は。
会わないでいる間にこんな莫迦げた関係は生死を懸けた旅と言う異常な緊迫感の産物だったと目が覚める事だろう。 じきにもっと気安く触れ合えるもっと身近な何処ぞの女との新しい関係を始めるに決まっている。 目が覚めるのが先か本当に長安に越して来るのが先か、まあそうなっても広い桃源郷中の様々な地域から人の集まって来ている長安だ、選り取りみどりでとっとと越して来たほうが寧ろこいつにとっては結構な事だろう。
こいつの好きそうな優しい言葉の一つも掛けてやった事の無い(当たり前だ気色悪い) 気の利いた話の一つもした事の無い、 揚げ句エロ河童を満足させる事も出来ない程性行為と言うものを嫌悪しているクセに男に抱かれて喘いでいるような、 そんな相手よりはマシな女なんて探せば幾らでもいるだろう。 それを、何を間違ってかこんな男に手を出すなんて本当にこいつは、莫迦、だ。
こいつの抱いている極限下での幻想が早く破れてしまえば良いのに。
その日を凝っと待っている位ならいっそ自分の方から終わらせてしまおうかと時折思い、 悟浄が自分の方からこんな関係最初からありはしなかったと言いたげに視線を逸らす日が来るのを時折心待ちにする。

「莫迦だ、な」
小さく呟く自分の口が笑みを形作っている事が分かった。
赤い髪を指で掬い取り口付ける。先程よりは随分明るくなってきた室内で、悟浄の髪は最早臙脂色には見えず炎のような美しい真紅だ。 指先に灯る炎はあまりに美しくてこの侭自分の指が真紅に染まってしまえば良いと思う。

夜が明けるとまた長安が近くなる。




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悟浄の家、最初は長安郊外にしようと思ったのですが一巻読み返したら悟浄の家を訪ねる三蔵と悟空の歩いている場所が長安内には見えなかったので長安から一番近い、 そこそこ大きい都市である咸陽にしました。猪悟能連行の任務受けた時悟空に「暫く留守にする」と言うのも最初読んだ時 「暫く」=「数日」と言う意味だとも思ったので。長安とは20km位離れてます。ジープだと直ぐですが。

「花満天」に続く。

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