白氷
軽やかな金属の音が聞こえて来る。
何の音だろうと考えながらも瞼は閉じた侭、まだ躰は昼下がりの気怠い眠りから覚醒しそうにない。
途切れ途切れに聞こえ来るのはやや高めの、でも決して不快では無い音。
鈴の、音・・・?
半分夢の世界を漂いながら昔の事を思い出す。
夏だった。
子供の頃住んでいた町には後ろが大きな荷台になった自転車で夏はかき氷、冬は味噌田楽を売って歩いている老人がいた。
自転車に大きなベルが付いていて、そのちりんちりんと言う澄んだ音色は遠くにいても良く聞こえたものだった。
あのベルの音が聞こえると養父は「氷を買いに行きますよ」と俺を呼んで財布を握って玄関まではたはたと歩いて行ったものだ。
荷台の重たい自転車はそれ程速く走れなかったのでベルの音を頼りにいつもの氷売りのルートを辿って歩いて行けば子供の脚でもそのうち追いついた。
自転車の荷台には四角く切り出した大きな透明な氷と削り機が置いてあり近くに寄るだけで涼しくなるような気がした。
饅頭とか餡蜜とか、年寄り臭い味の甘味が好きだったのに養父は何故かかき氷のシロップは練乳ではなくイチゴ味を好んだ。
然しブルーハワイが登場してからは一途なブルーハワイ派に転向した。
いい年をして舌を着色料で真っ青に染めながら「一口交換しましょう」と言って必ず俺の練乳と一匙ずつ交換して食べた。
俺はブルーハワイなんかちっとも好きじゃなかったのでいつも「何でこの人はこんなものが好きなんだろう」
と思っていた。
青い青い夏の空の色に良く似たブルーハワイ。
何て間抜けな名前だと子供心にも思ったのにあの人は恥ずかしげもなく「ブルーハワイお願いします」
と平然と口にしていた。
削られて白い泡雪となった山盛りの氷にとぷとぷと音を立てて注がれるクレヨンの色に、絵の具の色に良く似た真っ青なシロップ。
発泡スチロールのカップを掌に載せて二人並んで家へ帰りながらプラスチックの匙で氷の山を削り取っては口へ運んだ。
歩きながらものを食べるのは行儀の悪い事だと分かっていたけれど。
「暑いから早く食べないと溶けてしまいますからね」
そう言って養父が笑ってくれたので。
子供には多過ぎる分量のそれは家に帰り付く頃には大抵養父の言葉通り暑さで半ば溶けただの色のついた冷や水になってしまったが。
足元のアスファルトの眩しい程の照り返し煩い程の蝉の声目が痛い程の天上の青。
何もかもが過剰過ぎる季節に過分な程注がれた慈しみ。
もう帰れる家もないけれど。
夢から浮上しながら再び鈴の音を聞く。
りり、りり・・・。
記憶の中のあのベルは、こんな音では無かった。
こんな転がるように涼やかな高い音では、気紛れに揺れる音をしてはいなかった。
あの家の縁側に吊されていた金魚柄の風鈴を遠く思い出す。縁は青で橙色の金魚の周りには藻のつもりだろう、波打った緑色の線が踊っていた。
違う、風鈴でも無い。風鈴にしては音が高い。
そう、この音はまるで身体の動きに合わせて鳴っているかのようにせわしなく震えて・・・。
相変わらず目を閉じた侭で鈴のような音を聞いていたが、突然音の正体に気が付いた。
そうだ、猫の首輪だ。
だがこのマンションはペット禁止の筈・・・!
其処まで考えて一気に目が覚めた。
慌てて起き上がると其処は自分のマンションでは無かった。
未だ夏でさえ無く悟浄のアパートの床の上、二つ折りにした座布団を枕に横になっていた。
開け放った窓辺に胡座をかいて座る悟浄の両手の中のしなやかな生き物が一声、にあ、と鳴いた。
「あ、起きた?」
逆光ぎみでその表情はよく見えないが声の調子から悟浄がいつものように笑みを浮かべている事が分かった。
「お前、その猫・・・」
こいつは猫なんか飼っていただろうか。そもそも眠る前はその優雅な尾をした三毛猫を見た記憶が無かったが。
「あ、これ近所で飼ってる猫」
そう言って悟浄が猫の両脇に手を差し込んで高く持ち上げると猫の首から軽やかなりり、という音が聞こえた。
「・・・どうした?」
「え?」
尋ねられ斜めに起き上がった姿勢から上半身を真っ直ぐに伸ばそうとすると、溶けた氷のような一粒の水滴が、ほろと頬を転がり落ちて行った。