夏天猶熱 3
地表から立ち上る熱気に幾ら拭っても絶えず汗が滴り落ちて来る。既に軍服はじっとりと気色悪く膚に張り付いている。
額から頬へと降りて来る汗を再度手の甲で拭いながら辺りを見回した時、
ふと回廊を渡り近付く集団が視界に入った。首を巡らせて見れば坊主共に囲まれた三蔵法師がそのただ中に居た。
庭中が光で溢れているのが夏の強い日差しの所為ではなく、その人の放つ光の所為だと見間違うばかりの荘厳さ。
先程見た時以上に小物をじゃらじゃらと身に纏い付かせ、金冠を被り、暑さを苦とも思ってなさそうな凛とした姿で歩むその姿に、
傍らに立った部下がぽかんと口を開ける。
「えらい別嬪ですね」
「ありゃあ男だぞ」
「そりゃあ分かってますが」
腰から提げた水筒に手を遣り、喉を鳴らして水分を補給しながらもそいつの不躾な視線は三蔵法師から離れない。
光の加減によって色を変える綺羅綺羅しい高価そうな薄布を頭から被っている為、三蔵法師の顔は半ば隠れている。
にも関わらずその面差しを美しいと評した目聡さに呆れながら一応クギを差す。
閉ざされた大扉の前を通り過ぎ、俺達の姿は目に入っているだろうにこちらには一顧だに呉れず、
三蔵法師を含む坊主の一団は衣擦れの音と共にしずしずと大講堂の裏手の方へ向かって行く。
裏手にも入口がある事は図面を見て頭に入っていた。
程なく、坊主の集団は俺達の視界から消え失せた。
襲撃に当たり考えられる方法は幾つかあった。先ず、寺に侵入して手っ取り早く三蔵法師を殺って一般人に紛れて逃げる。
次に、爆薬か何かを使用して一般人もろとも三蔵法師を殺害する。
今の処何の騒ぎも起きていないし、不審物も発見されていないので大丈夫だと思いたい。
それから、法会の会場に紛れ込んで密室となった大講堂で何らかのアクションを起こすパターン。
そんな処で実行に移した場合、殺害者本人の逃亡は敵わないであろうが目的は容易く達せられる。
そして本人に生きて帰るつもりがなければ逃亡ルートを確保出来ない事も何の問題もないだろう。
そして最後に、法会の場では何もしないでおいて寺院内に潜み続け、三蔵法師が一人になった隙を狙うパターン。
これだけ広い寺院だ、万が一手引きする者があった場合隠れる場所など幾らでもある。
本気で三蔵法師襲撃を阻止したいのならば、この程度の警備だけでは手ぬるいのだとはっきりと言い切れる。
大講堂内から信経を唱える声が聞こえて来た。一人の人間の声ではなく、
幾重にも重なり合って波のようにある時は遠くある時は近く聞こえる不思議な音声(おんじょう)は、
中にいる者達の唱和の声であろうと思われた。
この侭何事もなく終わってくれれば良いのだが。
この警備の依頼を受けてから幾度かは考えた。尊い三蔵法師の身を囮に、との案からしてそもそもおかしいのだと。
寺院内に妖怪と内通している者でもいたら大講堂内が手薄であると言う、この配置すら相手に漏れ伝わっているのだ。
人間と妖怪が内通する、あの異変の後ではあり得ない事だとは思うが、可能性がない訳ではない。
桃源郷に於いて5人しか就く事の出来ない三蔵法師という地位。限られたポスト、そして玄奘三蔵法師の年若さ。
自分こそ次期三蔵に、と思い詰めた者が先走ってもおかしい事はない。
三蔵法師が棺桶に片足突っ込んだ爺ならともかく、或いは何らかの事情で今すぐにでも三蔵の地位を禅譲するとでも言うなら別だが、
自らの年齢と三蔵法師の年齢を比較して、次期三蔵を選ぶその時が来るまで待っていられないのだと焦る者もいるだろう。
例えば老い先短い爺いとか、前途有望な、然し玄奘三蔵法師より年長の若手とか。
手を下したのが妖怪であるならば自分が疑われる事はない。危ない橋を渡る事無く、自らの手を汚す事も無く。
神職者である僧侶の身と雖もそう思う者がいないとは言い切れない。
或いは、悪意はなくとも襲撃に備えている事を外部の者に口外している者がいないとも言い切れない。
例えば、出入りの業者などに世間話のついでに漏らしていないとも限らない。
大がかりな組織が背後に潜んでいたとしたら、当然寺に出入りしている業者にも目を付けているだろう。
こちらは襲撃者の規模も分かってはいないのだ、矢張り、身辺警護を退けるようにとの命は何としてでも断るべきだったと苦く思う。
今更そんな事を思っても勿論手遅れだが。
不意に、講堂内から聞こえていた信経の声が止まった。
次いで、幾つもの悲鳴。物音。
矢張り一番手薄な処を突かれたかと、舌打ちと共に腰に下げた太刀を一瞬確かめてから走り出す。
観音開きの重たげな大扉に張り付いて取っ手に手を掛ける。中から聞こえて来る悲鳴と怒声は、今以て止む事が無い。
「どうなってるんでしょう?」
「知るか!」
遅れて反対側の扉に取り付いた部下が訊ねるのに怒鳴り返す。
間に合うか・・・?
間に合ってくれ、そう願いながら力を込めて扉を引っ張る。
見るからに重い筈の扉を引く手応えが妙に軽くなった、
と思った瞬間に内側から弾けるように扉が自分に向かって押し寄せて来るのを咄嗟に後ろに飛び退いて交わす。
が、更に次の瞬間に大講堂内から飛び出して来た婆さんとぶつかって、縺れ合うように地面を転がった。
にも関わらず転がる俺達に起き上がるように手を差し伸べる者もおらず、失笑する者もいなかった。
一体何が、尚も転がりながら抱き合った婆さんの肩越しに必死に首を起こして今し方勢い良く開いた大扉に視線を向ける。
途切れる事無く、ある者は叫び声を上げながら、
ある者は突き飛ばされでもしたのか地面を転がりながら次から次へと人が涌いて出る。
まるで錬金術か何かで堂内の人間を倍増させ、収まり切らなくなった人間達が溢れ出ているのではないかと思うような光景だった。
然しそんなコトある筈もないので手近な人間に事情を聞く事にする。取り敢えず起き上がって腕の中の婆さんの肩を揺さぶる。
「おい。中はどうなっている」
「う・・・、うーん」
「・・・おい。大丈夫か」
「ア、イタタタタ・・・」
転がった拍子に何処か痛めたのかも知れない。婆さんが顔を顰める。
「後で手当してやる。それより中はどうなってるんだ!」
大声を出すとはっとしたように婆さんが我に返る。次いで、俺の軍服に気付いたのだろう、安堵の表情を浮かべる。
「そ、そうだ、妖怪が・・・!」
矢張りそうだったか。
妖怪の襲撃ではなく天井が崩落したとかそんな話だったら良かったのに、いや、良くはないか。
そんな不謹慎な事を短い時間に考え、一兵卒からやり直す位だったら別の職に就いた方が良いだろうかと、そんな考えも脳裏を駆け巡った。
が、一応確認する。
「三蔵様はどうした」
「さ、三蔵様・・・」
頭でも打ったか、婆さんはきょとんと俺の問いを繰り返す。
「三蔵法師は無事かと聞いている」
「そうだ、三蔵様が!」
「三蔵様はどうした!」
「三蔵様・・・、三蔵様が妖怪を倒してくださって・・・」
「何?」
フム、堂内に何か仕掛けでもしてあったのだろうか。
「本当か?」
「ええ、本当ですよ」
顔を上げて未だ人の波の止む事の無い大扉と、今は大講堂の両横の扉も開いたらしくそちらからも民衆が走り出して来ているのを確認する。
それと、扉近くで人波に押され転がっている者達と、中から出て来る者達の勢いに中に踏み込めずにいる部下達と、
そして同じく扉に近付けないでいる騒動を聞き付けてやって来たに違いない寺の坊主共と。
妖怪の脅威が消えたのだったら何故あの者達はあんな必死の形相で逃げ出している?
座り込んだ侭の婆さんをその場に残して大講堂へと足を進める。
「ま、待っとくれ軍人さん、軍人さん!足が痛くて歩けないんだよう」
「・・・・・・人を寄越すから待ってろ」
背後から縋るように呼び掛けられるのに足を止めて告げてから、手の空いてそうな坊主を捜す。
「おい、怪我人の救護を頼む」
親指で婆さんの座っている方向を指し示すと、慌てたように坊主が走って行く。
どうやら他の怪我人も扉付近でうろうろしている坊主共が自主的に介抱を始めたらしい。
こういう処は流石に行き届いた大寺院だと、そんな場合ではないのに妙に感心した。
パニック状態に陥った民衆達の避難はピークを超えたらしく、先程よりは若干人の流れが緩やかになっている。
こういう時にこそ人間の本性は現れる。我先に他人を押し退けて逃げ出す者と、
不安を抱えた侭言葉少なに列に並んで順に自分が脱出出来るのを待つ者と、
そして、傷付いた者を発見し僧侶でもないのに倒れ伏した者に手を差し伸べる者と。
そのいずれにも該当しない俺は人混みを掻き分けて流れに逆らい堂内へと足を向ける。
先程迄大勢が詰め込まれていた大講堂内には、未だ熱気の欠片が残っていて、
一歩脚を踏み入れただけで香の匂いと共にむっとした空気が押し寄せて来た。
眼を細めて辺りを見渡してみるが、堂内に残っている者はもうあまり多くはなかった。
取る物も取り敢えず逃げ出した群衆が忘れて行ったのだか落として行ったのだか、
床の上には手巾や髪飾りらしき小物や小袋などが一面に散らばっている。
その雑然とした様の中に殺気の名残りを感じ取り堂内を眺め渡した視線の先、三蔵法師と、彼の人を襲撃したと思しき一団を発見する。
何処か悄然とした様子の年嵩の坊主達が隅っこに固まっているのとは対照的に、鎖で一括りにされた男達を足下に従え、
背筋を伸ばして立つ三蔵法師と、その傍らに長身の、見た事もないような鮮やかな赤い色の髪をした男がいた。