マヨヒガ
ありふれた日々の営みをくだらないと思った事は無い。けれど何時の間にそれが自分とは縁が無い物になってしまったのかと思う時がある。
仲の良い両親が居て自慢の兄貴が居て近所のおじさんおばさんも良い人達で。
そんな普通の暮らし。
今更そんな暮らしに憧れる訳では無いが手に入れられなかった幸せを自分で代わりに築こうと思いもしない程度には幸せというモノに懐疑的になった自分。
可愛い女の子も綺麗なお姉さんもダイスキだし華奢な肩に腕を回して抱き寄せて歩く時の甘やかな気分も気に入っている。 でもそれは幸せな家庭を築いて可愛い子供を産んで貰う為だと思った事は一度も無いし、誰かを幸せにしてやれる自信も無い。
幸せって、ナニ?
ものの見事に八戒達とはぐれたらしい。
敵襲を受けてチームワークと言うモノがまるっきり皆無な俺等は皆てんでんばらばらの方へ散って行き、 気が付いたら元来た路を見失っていた。
昨日泊まった宿の娘夫婦がおめでたとかでたまたま祝いを言いに集まって来ていた近所の人達とハチ合わせした。 まだそれ程大きくはない腹をした幸せそうな娘としきりに彼女を気遣う旦那と。 嬉しそうな娘の顔を見ていればこちらも嬉しくなる。 「ここでは煙草は駄目ですよ」と咎める八戒の言葉に素直に従ってやろうじゃないのと慌てて取り出しかけた煙草を仕舞う。 何故かと尋ねる悟空に煙草の害について説明し始める八戒。「煙害河童が」と悪態を吐く三蔵に 「人の事言えんのかよ」と言い返す。
呆れる程いつもと同じ光景に一組の幸せな他人の生活が掠めただけでどうしてこうも気分が重いのか。
何となく色っぽいお姉さん達を引っかけに行く気分にもなれず、 「煙害コンビ」と銘々され同室にされた三蔵と二人してコンビ名完遂とばかりに部屋で煙草をふかした。
背筋を伸ばして煙草を喫っているだけの口数の少ないお綺麗な面の三蔵法師様を見ていてさえ苛々が募る自分が厭になる。
本当に何故だか分からないが段々と、増々と気分は悪くなる一方で。
いや、本当は分かっている。分かっているが苛々の原因を突き止めようとするともっとイヤな気分になるから考えない。
そんな具合に精神状態が非常に宜しくなかった為仲間とはぐれていると言うのにそれ程困ったとは思えない。 見通しのきかない山の中やさぐれた気分でロクに考えもせず適当にウロついていたらお誂え向きに雨まで降って来た。
「・・・マジですか」
山の天候は変わりやすいと言うが正にその通りだと思いながら、 ともかく何処か雨を凌げる処を探して更に闇雲に歩き回っているうちに激しい雨の中、効かない視界の片隅に白い色が過ぎった。
「三蔵・・・?」
正直今はあまり顔を合わせたくない気分だったが見付けてしまったものは仕方が無い。 木立の中にいる自分と違い見晴らしの良い高い処に在る白を目指して歩いてみると果たしてそれは間違いなく最高僧様の法衣だった。 ともあれ一人見付かったと言う事は他の奴等も案外近くに居るのかも知れないと考えながら近付きかけて、 三蔵の様子がおかしいのに気が付いた。 別段足音を消している訳でも無いのに俺が近付いても三蔵はこちらを見ようともしない。 しきりに顔に降りかかる雨を拭っているクセにせめて少しでも雨の避けられる処、 例えば樹下に居る訳では無く吹きっ晒しの処に突っ立っている。
怪我でもしてんのか?
「三蔵」
側まで寄って声を掛けると初めて俺に気が付いたように視線だけをこちらに向けて来た。 雨を拭おうと上げかけていた自分の手に目を遣りぼんやり眺めた後その手を下ろす。
「おい・・・どうした?」
正面に回って顔を覗き込むようにしてみるといつも傲然と頭を上げてこちらを見据えて来る奴なのに視線を合わせて来ない。 膝を屈めるようにして下からその瞳を捕らえると三蔵の特徴とも言える強い濃紫は光を放っていなかった。 こんな事出会って以来初めての事だ。漠然とした不安が胸に広がる。
ざっと見た限り何処にも怪我は無いように見えるが、打撲とか内出血とか、見えない箇所に酷い怪我でもしているのかも知れない。
「濡れない処に行くぞ」
何処へと当てがあった訳では無かったが三蔵の腕を引っ掴んで歩き出す。 木の下だろうと何だろうとこんな雨を遮るものが何も無い場所よりはマシだ。 触れると即時に振り払われる筈の腕が大人しく手の中に収まっている事が更に不安を煽る。 立ち止まった侭の三蔵に促すように腕を引く手に力を込めれば思い出したように肩に掛けた経文を手に取り何事かを呟いた。 目の前で巻物の形に姿を変えた経文を懐に仕舞い込むと三蔵は弱く俺の手を払い除け一人で歩き始めた。
何でこんな山の中にと考える余裕も、入らない事を選ぶ余地も無かった。
一向に止む気配の無い雨の中見付けた廃屋。小屋と言うにはでかく家と言うには小さいそれ。 ガタガタと音を立てて戸を開くと外見程中は古びれてはいなかった。 手入れが行き届いており埃の匂いがしない処を見ると頻繁に利用されているのだろう。
きちんと整頓された室内には薬缶に清潔な毛布に汲み置きの水に薪の山。 何時誰が汲んだか分からないような水を利用するつもりは無いがその他は必要な物が一通り揃っているようだ。
暖炉に薪を投げ込み火を起こしてから濡れた服をばさばさ脱いでいく。 三蔵は先程見た時よりは随分マシになって来たようで、 経文を再びいつもの長紙の形に戻し暖炉の前に翳した後自らの法衣を脱いで広げている。
散々雨に濡れていた割に経文は文字が流れる様子も無く天地開闢以来伝わるとか言う噂はダテでは無いらしい。
妙に感心していると三蔵はアンダーシャツと長い手甲も脱ぎ去り上半身裸になった。 雨で冷え切った青白い膚に、その膚よりも一層白い幾筋もの傷痕が露わになる。 古傷以外は見当たらない事に、どうやら三蔵は何処も怪我をしていないらしいと見て取る。
「なあ」
脱いだジャケットから煙草を探り何とか濡れていない数本を発見し口に銜えお互い暖炉から少し離れた床に直接腰を下ろす。
「あんたもしかして雨苦手?」
「別に」
声音はいつもと同じだったがぴくりと肩を震わせた様子から嘘だと分かった。
「気のせいならいっけどさ、八戒が雨の日苦手なんだわ」
「そうか」
言ってから三蔵は立ち上がり干してある法衣の袖を探っていたが、 三蔵の煙草は雨で駄目になってしまったらしく舌打ちして水の滴るパッケージごと火の中に放り込んだ。 水を含んだ固体を放り込まれて一瞬火勢が弱まるがめらめらと炎が赤い箱を浸食して行く。
「包装を全部剥いちまうからだよ」
「うるせえ」
三蔵は開封する時セロファンの包みを全部剥がして棄てる癖がある。 こんな雨に備えている訳ではなく、 単に面倒だからと必要最低限以外の箇所は剥かないでいた俺の煙草はセロファンの包みに守られ健気にも雨露を堪え忍んでいた。 少し湿った愛モクを差し出すと眉間に皺を寄せながらそれでも三蔵はハイライトを手に取った。
湿ったマルボロがぐずぐずと炎に呑み込まれて暖炉から立ち上るイヤな匂いにハイライトの煙が混じる。
「雨が降るとさ、八戒の奴大掃除は始めるわ洗濯大会始めるわで大変なのよ。乾かねえっつうの」
「だろうな」
「それに何だかやたら手の込んだ料理作り出してさ。手が込んでるだけなら良いんだけど量も凄いんだこれが。 だから八戒が料理作り始めるとこんな日に小猿ちゃんが来てくれれば良いのにって思ったもんだよ」
「そうか」
苦笑しながら話すと返って来たのは先程と大して変わらない素っ気ない返事で。
「ちょっとあんたもう少し喋ってくんないと話続かないじゃん」
「うるせえよ」
非常に語彙の少ない最高僧様は普段「死ね」「殺す」「うるせえ」の三言だけで会話を成立させている。 いや、会話になど全然なっちゃいないが。 聞き慣れた不機嫌な言葉はこの場では俺の心証を確実に悪くした。 あんたが雨苦手そうだからわざわざ話してやってるっつうのにナニサマだ。
暫く煙草をふかすのに専念して黙り込むと途端に雨が屋根に叩き付ける音が室内に響くようになった。 三蔵がもぞもぞと子供のように膝を抱えて背中を丸める。ホラ煩いなんて言ったけど俺の有り難みが分かったっしょ。
そうしていれば誰も自分を傷付けられないとでも思い込んでいるかの如くに丸められた三蔵の背中に、 浮き上がるように白い長い筋となった傷痕。
それでも頑なに黙り込んだ侭の三蔵に仕方なしに再度話し掛けた。
「前も訊いたけどその傷ナニよ?」
こんな風に一緒に旅をするなんて思いもしなかった頃に尋ねてみた事があるがその時は教えて貰えなかった。 旅に出てからは風呂上がりや着替えの際にお互いの裸を見る事も多くなったので、 却って今更口に出しにくくなった問いを今日も駄目かなと思いながら口にしてみた。
「背中だから自分じゃ見えないだろうけど」
「傷は、ただの傷だ」
言いながら三蔵は吸い終わった煙草を火の中に投げ入れた。
「ただの傷って・・・あんたの傷尋常じゃないって」
返事があったのは意外だったがつまりそれ位今の三蔵は沈黙が堪えられないと言う事だろう。 言いたくない傷の事を口にするより雨の音を聞く方が辛い、か。
八戒にしろ三蔵にしろ難儀な事だと思いながら三蔵の上半身を眺めてみるとただの傷にしちゃあ数が多い。 背中だけでなく腹にも、肩にも、腕にも。 腕や肩の傷は致命傷ではないと分かるが背中と胸の傷はどう見ても殺意を込めて凶器を振り下ろされた痕だ。
「尋常じゃ、無いか」
やや俯き加減の三蔵が口の端を歪める。
見たくなかった。そんな昏い瞳。
「だってどう見たって転んだりした怪我とは違うだろうが」
「転んでこさえた怪我と大して変わりゃしねえよ。何時誰に付けられた傷だか覚えちゃいねえし」
「普通忘れねえだろ」
ここ数年のうちに出来たものではないように見える古痕。 恐らくはまだガキと言って良い頃負ったに違いない怪我を、恐怖を。 生命を終焉させる意図を以て躰に凶器を突き立てられて忘れられる筈が無い。
言い募る俺にそうかもな、と三蔵は小さく呟いた。
「でも俺にはどうでも良かったんだ」
あんたが言い張るような転んで出来た傷とは全然ワケが違うと言うのにどうしてそんな何でもないような表情をする。
「禁忌の子」である俺と違い誰にでも好かれるに違いない美しいハチミツ色の髪をした最高僧。
きっと誰もに祝福されながら産まれて来た。
あんたは俺があの家を出て食うモノも無く転がり込む先も無く路地裏で震えていた頃、 優しい師匠と暖かい屋根の下でぬくぬく暮らしていたんだろう?
あんたは大勢の人間に大切にされて育って当然のように尊い三蔵法師様に選ばれたんだろう?
大して年も変わらないのに俺が街のチンピラだった頃坊主共に傅かれご立派な長安の寺に君臨してただろう?
あんたのその迷い無いまっすぐな瞳は光しか知らない人間だけに赦された強さだと思い憧れていた。
どうしてそんな風に幾つもの殺されかけた傷を抱えて自分の躰なんかどうでも良いなんて言えるのか。
見たくない見たくない。幸せに育った人間も。幸せに育ったと思ってた人間がそうでなかったと知る瞬間も。
互いに黙り込んだ為再度ざあざあと雨の音が響き始めた。 世界から切り離され二人きりで居る小屋の中聞こえる雨の音はこんなにも優しいのに。
尽きる事の無い薪の山から暖炉に絶えること無く木片を投げ込んでいる為暖かい筈の室内で、 雨足が強まるのに合わせ寒さに震えるように三蔵が自らを抱き締める形で両腕を躰に回す。 長身に釣り合わぬ華奢な背中。 肩胛骨沿いに走る長い筋はまるでサナギが成虫に変成する瞬間に殻を割って走る一条の割れ目のようで、 其処から羽が生えて来そうな程の生々しさをもって俺の視力に訴える。
「・・・雨は嫌いなんだよ」
吐き出すように三蔵が告げる。それでもガラス窓の向こう、降りしきるは雨からは目を逸らさずに。
「だから何か、話せ」
躰の傷も、向けられた殺意も自分を傷付ける事は無かったのだと告げた三蔵を、 傷付ける事が出来るのは雨音なのだと。
知って尚、三蔵の心を満たす言葉も、自分の心を満たす言葉も、見付かりそうに無かった。