眼鏡




猛烈な頭痛と喉の乾きで目が覚めた。
「うあ・・・」
そんなに飲んだつもりはなかったがアルコール度数高い酒だったからなあ、と思い出しながら眉を顰めた。 取り敢えず水を飲もうと柔らかい布団の上から身体を起こそうとすると何となくスッキリと身体が気怠い。
「・・・・・・」
気が付いてみれば自分が寝ているのは見慣れた自分の布団では無かったが何時布団に入ったか記憶が無い・・・いや、 あるにはあるがその後の記憶が無い。





昨日は三蔵と二人で長安の北東約30kmばかりの所にある有名な温泉街にやって来た。 古くから温泉のある街として名を馳せたそこには時の皇帝が仕事を擲って通い傾城と過ごしたと言う逸話が残っている。 皇帝も傾城の美女も死んだ後も温泉街は廃れる事なく現在はリゾート地として盛栄を誇っている。
風呂上がりに温泉饅頭を食いながら地酒を飲みながら新聞を読むと言う忙しいんだか寛いでいるんだか分からないような三蔵の姿を暫し眺めた後、 今日は眼鏡掛けてねえなあ・・・と言う事に気が付いた。
「なあ、三蔵。眼鏡どうしたの」
「忘れた」
三蔵はちらとも顔を上げず即答した。
「忘れた、って・・・眼鏡無しでも新聞読めるの?」
「現に今読んでるじゃねえか。文字が見づらいがな」
「ふうん」
確かに三蔵は新聞を睨み付けるようにして顔を紙面に近付けている。俺には分からないが多分そうしないと良く見えないのだろう。
「三蔵が眼鏡忘れたのってさ、きっと折角温泉に来てるんだし新聞なんか読まないでゆっくりしようってコトだよ」
風呂から上がったばかりでまだほこほことしている三蔵の肩に背後からじゃれつきながら言う。 三蔵はいつも大事件でも起きているかの如く神妙なツラで字面を追っているがそんな蹙め面ばかりしてたら見てるこっちの方が肩が凝りそうだ。 三蔵の肩に伸ばした腕を投げ出すように乗せるとまだ少し湿っている髪が肌を掠めた。 何とか成分入りとかで白濁した湯だった筈だが三蔵の躯からは石鹸の清潔な香りが立ち上る。 そりゃ抱き付いた時硫黄の臭いでもしたら流石に萎えるしな。
眼鏡が無いとキスするのに邪魔にならなくて良いかも。そう思いながら両手で丁寧に新聞を取り上げて口付けると饅頭の甘い味がした。
「三蔵、あんこの味する」
「てめえは酒臭い」
くつくつと笑いながら告げるとそう言い返された。
「三蔵だって飲んでるじゃん」
再度口付けて酒臭いと言われた仕返しに口内にぷうぷうと息を吹き込む。
「気色悪い事すんなっ」
大して力は入ってないが拳でげしげしと肩口を叩きながら三蔵が俺の身体を押し退けようとするので笑いながら三蔵の身体を抱きかかえて床に転がる。
「この・・・っ」
体勢を崩しながらも三蔵は今度は肘で俺の身体を払おうとする。三蔵が反撃出来ないよう抱き込んだ侭床を転がり回る。 三蔵がぎゅーとかぎゃーとか言っているが(そんな事は言わなかったかも知れないが)揃いの浴衣の裾も割って足を絡めて逃げられないようにして俺は回り続ける。 テーブルの足を見ながら天井を見ながら近過ぎて金色の塊としか認識出来ない三蔵の頭部を抱き込みながら。 風呂に入ってる間に仲居さんが敷いておいてくれた布団の上で漸く回転を止めた。 勿論三蔵に乗り上げた体勢で止まったのは言うまでも無い。
「このバカ・・・」
罵りかける三蔵にに、と笑い掛けて既に乱れかけている浴衣をはだけてから三蔵の首筋に顔を埋めた。



・・・そこで俺の記憶は終わっている。そこで二人して健全に眠りに落ちたと言う訳ではない事は自分の身体の気怠さから分かる。
俺のバカバカバカっ!何て勿体無い!こっから先が重要なのに何で覚えてねえんだよ!


もう一回ゆっくり思い出してみよう。
コップに水を注いで喉に流し込むと不快な喉の乾きが治まった。これで少しはマシな思考が出来るようになると良いんだが。
昨日、宿に着いてすぐ大浴場に行った後飯を食ってから今度は檜風呂に入った。 気持ち良さげに吐き出される息と共に項にかかる濡れた髪を掻き上げる仕草。ごきごきと首を回しては肩を揉み解す指。 大浴場に居合わせた他のおっさん達と同じ爺くさい筈のそんな動きが何でこうも一々色っぽいのかと視線を外せないでいるのに、 普段だったら人の視線に敏感な三蔵は「何をジロジロ見てやがる」位の事は言うもんだが温泉に寛ぎきっている所為だろう、 何も言わず眠るかのように瞼を閉じてお湯に浸かっていた。 三蔵の長湯に付き合ってたらこっちがのぼせてしまうので先に部屋へ引き上げた。 売店で買って来た酒を部屋に備え付けの湯呑み茶碗に注いで飲んでいると漸く三蔵が風呂から戻って来た。 もう一つ湯呑みを用意し酒を注いでテーブルの上に置くと新聞を広げながら無言で三蔵は湯呑みを手に取りまるで水でも飲むかのように一気に飲み干した。 それから漆塗りの菓子器に盛られたサービス品の温泉饅頭に気付いて一度新聞を膝の上に置いて饅頭の包装を解いた。 その仕草は丁寧だったが何処となく嬉しそうにいそいそと、透明なセロファンの包みを剥かれているそれが饅頭でさえなかったら可愛いと思う所だ。
「酒飲みながら饅頭ってどうよ」
「うるせえ」
見ているだけで胸焼けのしそうな組み合わせに俺は半ばヤケになって酒をぐいぐい流し込んだ。 風呂で暖まった身体に気持ちの良い辛口吟醸の冷やだ。辛口だから甘い饅頭と合うのかも・・・ と一瞬考えたが次の瞬間そんな訳ねえだろと自分にツッコミを入れた。 その時三蔵がいつもの眼鏡を掛けていない事に気が付いたのだ。その後は三蔵と一緒に文字通り布団へと転がり込んで。





「・・・駄目だ思い出せない」
がくりと肩を落とすと視界の端で自分の赤い髪が揺れた。今にして思えばあの大回転の時既に俺は酔っていたのだろう。
「何が思い出せないんだ?」
声を掛けられ振り返ると起きた時から部屋にその姿の見えなかった三蔵が入口に立っていた。 朝の早い三蔵の事だから散歩にでも行っているのかと思ったがまだ浴衣姿と言う事は朝風呂にでも行って来たのだろう。
「あ、いや何でも・・・三蔵は風呂行ってたの?」
「・・・・・・」
俺の問いには答えず三蔵はひくりと口の端を吊り上げた。 良く見れば寒さを堪えてでもいるかのように浴衣の袷を喉の辺りで掻き合わせている。
「風呂に・・・」
「三蔵?」
良く見ると三蔵の手が小刻みに震えている。何かあったのかと思わず身を乗り出す。
「入れると思うかコレで」
言うと、三蔵は浴衣の前を抑えていた手を緩めて胸元を広げて見せた。
「スミマセンッ!」
一目見て姿勢を正して即土下座する。どうやら三蔵の手が震えていたのは怒りの余りだったらしい。 その肉付きの薄い胸だけでなく、いつもの黒いアンダーシャツで隠れるギリギリの首の高い位置の辺りまで赤い花のような印が散っていた。 恐らく朝風呂に入ろうと風呂場迄行ってから気が付き慌てて戻って来たのだろう。 三蔵は色が白いので随分とその赤い色が目立つ。しかも一つ二つなんて可愛い数じゃなければ尚更だ。 風呂に入ってからでなくて良かったな、と一瞬思ったが言ったら殺されそうなので言わない事にする。
白い膚にそこだけ赤く色付く胸の尖りを舌先で転がし吸い上げ、 時に軽く噛んであの印を付けたのは恐らく自分なのだろうがそれすらも記憶に無い。 そして、本当に俺がやったのかなどと訊ねたら魔戒天浄を最大出力で喰らって即此の世から抹消されてしまうに違いない。
「折角温泉に来たってのに」
忌々しげに舌打ちすると三蔵は着替えを漁り始めた。 この上実は三蔵を立腹させた自分の行為を俺自身が覚えていないとは、死んでも言う訳にはいかなかった。
三蔵が先程の俺の独り言を再度問い詰めたりしませんように、祈りながら三蔵とは違う理由で震える指で煙草に火を点けた。






信仰の続き。

遠い道で言ってたように初任給で温泉に来た二人。
この話の何処かにコレが入ります。

経文に続く。



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